編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

小室等de音楽祭

 今号の「なまくらのれん」で本人も書かれているように「小室等de音楽祭」は大盛況だった。小室さんは何人ものゲストとコラボしながら、ご自身の楽曲も披露し、トークも続く。お疲れだったろうと思うが、ニコニコとたのしそうで、かっこよかった!

 ゲストの1人、清水国明さんはウクライナから帰国したばかりだった。災害被災地に届けているトレーラーハウスについて、ウクライナでも役立てられないか、などなど模索中。ただ移送費などを考えると、復興事業として現地での製造を応援したいと話す。また、何が必要かと聞いたら「祈ってください」と言われたと、意外そうに紹介した。

 東日本大震災のある被災者は、話を聞くために能登半島の被災者に会いに通う。自分も同じことをしてもらい、誰かが見てくれていることが力になったからだという。祈るって、そういうことか。無力な人にとっての最後に残されたことのように見えるかもしれないが、そうではない。人を励まし、生きる力になる。(吉田亮子)

除染土の行き先

 東日本大震災の発災後、同じ年に生まれた甥っ子がこの4月で中学3年生になる。東京にも放射能が降り注いでいるという情報に、妹は生まれたばかりの息子と実家の母の3人で関西に脱出した。そのくらい切迫した状況だった。

 それなのに今や原発事故などなかったかのようなきらびやかな政治のふるまい。2月25日の報道では、空間放射線量を下げるために福島県各地で表土をはぎ取り、現在大熊町と双葉町にまたがる中間貯蔵施設で保管されている除染土について、伊澤史朗・双葉町長が個人的な考えとしながらもまずは「町内で利用」する意向を示したという。

 背景には東京・新宿御苑などでの除染土の再生利用の実証事業計画に住民の反対があり、法律で定める県外処理のめどが立たない状況がある。多くの福島の人たちは自分たちが望んだわけではないのに首都圏に電力を送るために原発を押しつけられ、事故によって故郷を壊され、挙げ句の果てに除染土の処理まで強いられている。あんまりではないか。(吉田亮子)

高校授業料の無償化

 日本維新の会が求めている高校授業料の無償化。現在国は年収910万円未満世帯の高校生に上限11万8800円(年間)、私立高校は年収590万円未満世帯に上限39万6000円を支援しているが、この所得制限を私立ともに撤廃し、支援金の上限を引き上げようというものだ。

しかし歓迎の声があがる一方で、実現すれば私立高校や塾が値上げしてかえって教育格差が拡大するのではないかとか、私立に集中して公立の定員割れを招くのではなどと言われ、先行して独自に実施している東京都や大阪府の状況をあえて無視した政策ではないかと反対の声も目立つ。

 なにより気になるのは、カネを出すなら口も出すと、私立学校の中身に国が介入・監視してくるのではないかということ。たとえば3月の卒業式、「日の丸・君が代」が強制されないことを願う。そして、現在排除されている朝鮮学校を対象とせずになにが無償化かと。高校生まで政治の駆け引きの道具にするなということも言っておきたい。(吉田亮子)

故郷は他にない

 今号で取り上げたドキュメンタリー映画『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』。ヨルダン川西岸の南端、マサーフェル・ヤッタではイスラエル軍が1週間に1軒の割合で村人の家を壊していく。しかし負けてはいない。村人は夜のうちにまた家を建てる。

 はじめはそんなことを繰り返していたが、そのうち軍は大工道具を取り上げ、学校を壊し、鶏小屋や井戸を壊し、日常を壊して、この地で生きていけなくなるような仕打ちを続ける。先祖代々ここで生きてきた村人たちが、いったい何をしたというのか……。

 映画の出演者で撮影者で監督の若者たちが「もっと撮らなきゃ」「書かなきゃ」と焦る場面がある。報道しなければなかったことにされると。一方で、これ以上活動を続けたら逮捕・拷問されるかもしれないという恐怖とも闘う。

 以前「君が代不起立」で東京都教委に抵抗する都立学校の元教師、根津公子さんが、今の日本で抵抗しても命までとられるわけじゃないから、と言っていたのを思い出す。(吉田亮子)

ノー・アザー・ランド

 今号で取り上げたドキュメンタリー映画『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』。ヨルダン川西岸の南端、マサーフェル・ヤッタではイスラエル軍が1週間に1軒の割合で村人の家を壊していく。しかし負けてはいない。村人は夜のうちにまた家を建てる。

 はじめはそんなことを繰り返していたが、そのうち軍は大工道具を取り上げ、学校を壊し、鶏小屋や井戸を壊し、日常を壊して、この地で生きていけなくなるような仕打ちを続ける。先祖代々ここで生きてきた村人たちが、いったい何をしたというのか……。

 映画の出演者で撮影者で監督の若者たちが「もっと撮らなきゃ」「書かなきゃ」と焦る場面がある。報道しなければなかったことにされると。一方で、これ以上活動を続けたら逮捕・拷問されるかもしれないという恐怖とも闘う。

 以前「君が代不起立」で東京都教委に抵抗する都立学校の元教師、根津公子さんが、今の日本で抵抗しても命までとられるわけじゃないから、と言っていたのを思い出す。(吉田亮子)

今号で編集長を卒業します。ありがとうございました。

 目的地に向かい百メートル歩いたら、立ち止まって振り返る。不思議な感覚だ。いま確かに自分で辿ってきた。でも、そこはまるで別世界のようにも見える。また百メートル歩き立ち止まり振り返る。別世界と感じた時点がすでに別世界になっている。意識を戻して前を向くと、今度はそこにも別世界が生じている。

 一本の道をひたすら前を向いて歩いて行かなくてはだめだと、子どものころ、たくさんの大人に教わった。でも人生はジグザグであり、過去を呆然と振り返ることがあり、エッシャーのだまし絵に入り込んでしまうことがあり、とても一筋縄のきれいごとではすまない。自分が大人になり初めて、そのことを実感した。
 
 本誌編集長になり6年9ヶ月。暴走したり、カイコのように丸まって反省したり、ぐっと堪えたり、快哉を叫んだりと、人生並みにめまぐるしい日々を送ってきた。ただ一点、就任時の誓い、「すべての人の人権と尊厳が守られる社会を目指して」の姿勢だけは持ち続けた。

 それに免じ、至らなかった点はご容赦ください。今号で編集長卒業です。これまでの数々の励まし、心のこもった叱咤をありがとうございました。新編集長は、若く、バイタリティーにあふれた正義漢です。必ず、『週刊金曜日』をさらに充実した誌面に変えます。ご期待ください。

 私は発行人として『週刊金曜日』のために身を粉にする覚悟です。これからもお付き合いをよろしくお願いいたします。(北村肇)

スナック菓子の最大・最悪の副作用とは何か

 幸い、現時点で、私の周りにはいない。ポテトチップスやかっぱえびせんを常時、引き出しに入れ、時折、パリパリ、ボリボリと食べる人。むろん、そのことで蔑視をしたり、人格を否定する気はない。ただ、意志が弱いんだなとは感じるし、電車内での化粧と同じくらい、できれば目をそらしたくなる光景ではある。

 いや、こんな持って回った言い方はやめ思い切って叫んでしまおう。スナック菓子は人間の食べる物ではない。しかし……と逆説の接続詞を使うところが、われながらだらしない。実はたまにビールのつまみとして重宝だったりするからだ。まあ、「しょっちゅう食べる物ではない」をとりあえずの結論に。

 本誌今週号で「スナック菓子のコワーイ話」を特集した。専門家によれば、ポテトチップスなどのスナック菓子はマイルドドラッグだという。麻薬取締法の対象となるヘロイン、マリファナなどがハードドラッグ、嗜好品だが大量に摂取すると健康を害するアルコール、ニコチンなどがソフトドラッグ。それらに比べれば「まだまし」とはいえ、スナック菓子は依存症を引き起こし、しかも肥満に結びつく危険性が多分にある。

 さらに添加物の問題もある。塩分や糖分を過剰に摂取することになり、子どもの腎臓病や糖尿病を引き起こすリスクがあるというのだから、「コワーイ」話だ。発ガン物質が含まれているケースもあるという。詳細については特集をみていただきたい。

 スナック菓子に代表される「簡単食品」は、現代人にとって欠かせない存在になっている。大きな理由は、時間が節約できるからだ。簡単に空腹をいやすことができ、簡単に栄養が取れ(実際は怪しいが)、何よりも簡単に入手できる。おやつを自分でつくるとなったら、かなりの手間暇がかかる。それはもったいない。こうした、何ごとにつけても「手をかける」時間を惜しむ点では、私も人後に落ちない。
 
 では、浮いた時間を何に使っているのかと考えると、明確な答えが見つからない。そもそも、「食べる」という行為は生命維持だけではなく「快感」に結びつくはずだ。であるなら、その快感を得るための時間と、簡単食品によって浮かした時間との関係はどうなるのか。あれこれ思いを巡らせていると、一つの結論に達する。現代人は何が本当に幸せなのか考える余裕すら失っている。
 
 これぞスナック菓子最大の副作用。こじつけすぎかな。(北村肇)

民主党代表選で小沢惨敗をもたらしたマスメディアは絶滅危惧種

 新聞がここまで落ち込んだ要因の一つに、空疎な「客観」「公正・中立」を掲げ、「主張」を失ったことがある。だが、最近はさらに腐敗の度を深め、マッチポンプ役を平然とした態度でこなしている。典型は世論調査だ。特定の方向に世論を引きずるため「多数決原理」を利用しつつ悪辣な宣伝活動をしているのだ。
 
 最も影響力の強い『朝日新聞』の「主張」は日米同盟の堅持であり、そこに反旗を翻す小沢一郎氏や鳩山由紀夫氏は批判対象となる。だが、事実に基づかない主張はプロパガンダにすぎない。たとえば、辺野古沖への米軍基地移転推進が「国益」にかなう事実をどれだけわかりやすく読者に提示したのか。これまでも何度か指摘してきたが、米国に都合のいい報道が目立つばかりだ。
 
 政治とカネの問題に関しても、「小沢氏はカネに汚い」という印象を植え付けるような報道が中心で、法に抵触した事実を独自に抉り出したわけではない。むしろ、本来の同紙なら、東京地検の行き過ぎた捜査を批判すべきなのに、事実と無関係の「小沢つぶし」は目に余る。
 
 そして民主党代表選。『朝日新聞』を始めとした大手紙は、何度も世論調査を実施し、そのたびに「小沢氏とカネ」を強調した。紙面であおり、世論調査を行ない、その結果でまたあおる。代表選当日の『朝日』社説には言葉を失った。「小沢氏の立候補は理解しにくい。……最高指導者たろうとするにしては、けじめがなさすぎるのではないか」。同紙はこれも「主張」と言うのだろうが、アジテーション以外の何物でもない。客観的に見て、多くの新聞は小沢氏の足を引っ張り続けた。これはもはやマスコミファッショだ。
 
 小選挙区制になり、国会議員はますます世論動向を気にするようになった。国会議員票が思ったより小沢氏に流れなかったのは、マスコミ報道を見て寝返った議員が多かったからだろう。地方議員やサポーターが菅氏を圧倒的に支持したのも、新聞やテレビの影響が大きかったことは間違いない。菅直人氏の勝利はマスメディアがもたらしたと言っても過言ではない。

 インターネット上では、むしろ小沢氏支持の世論が多数派だった。ネット情報を重視する人々からは、新聞やテレビという大マスコミは既得権者として見られている。そうしたメディアの報道が胡散臭く感じられたことによる小沢支持とも考えられる。とするならば、大マスコミが絶滅危惧種になるのは時間の問題ではないか。(北村肇)

「9.11事件」は、「だれか」が「何か」を隠蔽している

 今年も9月11日を迎える。「9・11事件」を考えるとき、どうしても「御巣鷹山・日航機事故」が頭に浮かぶ。墜落原因は隔壁破裂とされた。99%ありえない。かりにそれが原因なら、急速な気圧変化により乗客は意識を保つのが難しく、機内で書いたと見られる「遺書」の説明がつかない。専門家には常識だ。ボーイング社が直ちに「整備不良」と認めたのもおかしい。本来なら、自社の不利益を回避するため徹底的に戦うはずだ。それもまた米国企業の常識である。他にも首をひねらざるをえない謎が多々ある。

 何より、墜落直後、「墜ちた場所」についての発表がころころ変わった。社会部記者だった私は、たまたま別の取材班にいたため、直接、現場に向かうことはなかったが、当局の発表のたびに同僚が右往左往させられるさまを間近に見ていた。日本の優秀な官僚組織が墜落場所を間違えるなどありえない。報道各社を現場に行かせないための時間稼ぎが行なわれたと考えるのが筋だ。その間に何があったのか。いくつかの情報はあるが、推測を述べるわけにはいかない。ただ、経験上、「大きな力が背後に存在した」ことだけは、言い切ってもいいだろう。

 陰謀論とか謀略論とかいうだけで鼻白む人もいる。しかし、長年、取材現場にいると、そう認定するしかない事件とたびたび遭遇する。刑事事件の冤罪にまで広げれば、ケースはもっと多くなる。なぜ書かないのかと言われることも多い。記事にできないのは、最終的な裏付けがとれないからで、取材側の力量不足がある。だが、「権力」が総力をあげて隠蔽を図ったとき、その壁を崩すのが容易ではないのも現実だ。
 
「9・11」も公にされた”事実”にはあまりにも疑問点が多すぎる。時間がたつにつれ、新たな謎が生まれ、当局発表の異様さを指摘する証言者も増えてきた。本誌今週号に掲載したインタビュー記事もぜひ、読んでいただきたい。事件から8年、「だれか」が「何か」を隠していることだけは、もはや疑いようがない。

 ジャーナリズムの原点は権力監視だ。それはつまり、「強い者」を相手にしたときは、まずもって疑ってかかる姿勢が欠かせない、ということでもある。官僚も政治家も、都合の悪いことは隠蔽に走る。ひどい場合には、でっち上げすら辞さない。私利私欲がからむときは、大体において、そうした動きは表面化する。しかし、たとえば「国益につながる」と彼ら、彼女らが信じ込んだときは、なかなかあぶりだすことができない。だからこそ、ジャーナリストにはもう一つ、欠かせないことがある。あきらめず、しつこく、真実を追求する姿勢である。(北村肇)

私怨と嫉妬のオーラにまとわれた民主党代表選は気色悪い

 この欄で多用している言葉の一つは「既視感」。既視感自体が既視感のようで、不感症になっていくのが怖いほどだ。自民党の派閥抗争が永田町をびっくり箱にしてしまい、それへの憤懣と怒りが生み出した民主党政権。それが一年もたたないうちに、またまた玩具箱をひっくり返してくれるとは――言葉もなし。

 いつから政治闘争の原動力が利権と怨恨だけになったのだろう。「だけ」と強調したのは、人間社会に利権や怨恨はつきものだから、それらがまったくない永田町を夢想したって始まらないからだ。でも、甘いと言われるかもしれないが、少しは理想や理念が闘争の原動力となる時代があったような気がする。

 田中角栄、福田赳夫、大平正芳――こういった政治家には野太いものを感じた。言わずもがなだが、彼らの思想や政策に賛同するものではない。ただ、私=常人とは違う「何か」を持っている。その規格外の存在感こそが一流の政治家たる所以だった。

「三角大福」の争いは現ナマの飛び交う生臭いもので、純然たる政策闘争ではなかった。しかし、それでもここ四半世紀のぶよぶよしたナマコのような戦いとは違い、どこかしら、腹の据わった武将同士のぶつかりあいという風情があったのだ。とともにというか、だからこそというか、派閥選挙に対する野党の批判も迫力があった。

 一連の「菅直人対小沢一郎」騒動は、自民党与党時代に何度も繰り返された学芸会と何一つ変わらない。貧困格差時代に円高、株安が加わり、市民・国民の不安は高まるばかりなのに、そんなことは二の次とばかりに代表選に走り回る。学芸会ではなく、ハツカミズミの運動会か。

 一方、政権奪取の好機であるはずの自民党は、かつての社会党や野党時代の民主党に比べても情けない限り。遠くから「民主党のバカ」と叫んでいるだけで、一向に動きだそうとしない。本来なら、今こそ「我が党の経済政策はこうだ。民主党に任せていては日本が滅びる」と立ち上がるときだろう。

 それにしても破天荒な政治家が減ったなとしみじみ思う。枠にはまりこじんまりとしたセンセイ同士が湿り気のある視線を投げかけ合う。いよいよこらえきれなくなると、徒党を組んで「敵」をつぶしにかかる。小物なのだ。「小・鳩・菅」みんな大差ない。嫉妬と私怨がオーラになってまとわりついている。気色悪い。(北村肇)