編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

今号で編集長を卒業します。ありがとうございました。

 目的地に向かい百メートル歩いたら、立ち止まって振り返る。不思議な感覚だ。いま確かに自分で辿ってきた。でも、そこはまるで別世界のようにも見える。また百メートル歩き立ち止まり振り返る。別世界と感じた時点がすでに別世界になっている。意識を戻して前を向くと、今度はそこにも別世界が生じている。

 一本の道をひたすら前を向いて歩いて行かなくてはだめだと、子どものころ、たくさんの大人に教わった。でも人生はジグザグであり、過去を呆然と振り返ることがあり、エッシャーのだまし絵に入り込んでしまうことがあり、とても一筋縄のきれいごとではすまない。自分が大人になり初めて、そのことを実感した。
 
 本誌編集長になり6年9ヶ月。暴走したり、カイコのように丸まって反省したり、ぐっと堪えたり、快哉を叫んだりと、人生並みにめまぐるしい日々を送ってきた。ただ一点、就任時の誓い、「すべての人の人権と尊厳が守られる社会を目指して」の姿勢だけは持ち続けた。

 それに免じ、至らなかった点はご容赦ください。今号で編集長卒業です。これまでの数々の励まし、心のこもった叱咤をありがとうございました。新編集長は、若く、バイタリティーにあふれた正義漢です。必ず、『週刊金曜日』をさらに充実した誌面に変えます。ご期待ください。

 私は発行人として『週刊金曜日』のために身を粉にする覚悟です。これからもお付き合いをよろしくお願いいたします。(北村肇)

スナック菓子の最大・最悪の副作用とは何か

 幸い、現時点で、私の周りにはいない。ポテトチップスやかっぱえびせんを常時、引き出しに入れ、時折、パリパリ、ボリボリと食べる人。むろん、そのことで蔑視をしたり、人格を否定する気はない。ただ、意志が弱いんだなとは感じるし、電車内での化粧と同じくらい、できれば目をそらしたくなる光景ではある。

 いや、こんな持って回った言い方はやめ思い切って叫んでしまおう。スナック菓子は人間の食べる物ではない。しかし……と逆説の接続詞を使うところが、われながらだらしない。実はたまにビールのつまみとして重宝だったりするからだ。まあ、「しょっちゅう食べる物ではない」をとりあえずの結論に。

 本誌今週号で「スナック菓子のコワーイ話」を特集した。専門家によれば、ポテトチップスなどのスナック菓子はマイルドドラッグだという。麻薬取締法の対象となるヘロイン、マリファナなどがハードドラッグ、嗜好品だが大量に摂取すると健康を害するアルコール、ニコチンなどがソフトドラッグ。それらに比べれば「まだまし」とはいえ、スナック菓子は依存症を引き起こし、しかも肥満に結びつく危険性が多分にある。

 さらに添加物の問題もある。塩分や糖分を過剰に摂取することになり、子どもの腎臓病や糖尿病を引き起こすリスクがあるというのだから、「コワーイ」話だ。発ガン物質が含まれているケースもあるという。詳細については特集をみていただきたい。

 スナック菓子に代表される「簡単食品」は、現代人にとって欠かせない存在になっている。大きな理由は、時間が節約できるからだ。簡単に空腹をいやすことができ、簡単に栄養が取れ(実際は怪しいが)、何よりも簡単に入手できる。おやつを自分でつくるとなったら、かなりの手間暇がかかる。それはもったいない。こうした、何ごとにつけても「手をかける」時間を惜しむ点では、私も人後に落ちない。
 
 では、浮いた時間を何に使っているのかと考えると、明確な答えが見つからない。そもそも、「食べる」という行為は生命維持だけではなく「快感」に結びつくはずだ。であるなら、その快感を得るための時間と、簡単食品によって浮かした時間との関係はどうなるのか。あれこれ思いを巡らせていると、一つの結論に達する。現代人は何が本当に幸せなのか考える余裕すら失っている。
 
 これぞスナック菓子最大の副作用。こじつけすぎかな。(北村肇)

民主党代表選で小沢惨敗をもたらしたマスメディアは絶滅危惧種

 新聞がここまで落ち込んだ要因の一つに、空疎な「客観」「公正・中立」を掲げ、「主張」を失ったことがある。だが、最近はさらに腐敗の度を深め、マッチポンプ役を平然とした態度でこなしている。典型は世論調査だ。特定の方向に世論を引きずるため「多数決原理」を利用しつつ悪辣な宣伝活動をしているのだ。
 
 最も影響力の強い『朝日新聞』の「主張」は日米同盟の堅持であり、そこに反旗を翻す小沢一郎氏や鳩山由紀夫氏は批判対象となる。だが、事実に基づかない主張はプロパガンダにすぎない。たとえば、辺野古沖への米軍基地移転推進が「国益」にかなう事実をどれだけわかりやすく読者に提示したのか。これまでも何度か指摘してきたが、米国に都合のいい報道が目立つばかりだ。
 
 政治とカネの問題に関しても、「小沢氏はカネに汚い」という印象を植え付けるような報道が中心で、法に抵触した事実を独自に抉り出したわけではない。むしろ、本来の同紙なら、東京地検の行き過ぎた捜査を批判すべきなのに、事実と無関係の「小沢つぶし」は目に余る。
 
 そして民主党代表選。『朝日新聞』を始めとした大手紙は、何度も世論調査を実施し、そのたびに「小沢氏とカネ」を強調した。紙面であおり、世論調査を行ない、その結果でまたあおる。代表選当日の『朝日』社説には言葉を失った。「小沢氏の立候補は理解しにくい。……最高指導者たろうとするにしては、けじめがなさすぎるのではないか」。同紙はこれも「主張」と言うのだろうが、アジテーション以外の何物でもない。客観的に見て、多くの新聞は小沢氏の足を引っ張り続けた。これはもはやマスコミファッショだ。
 
 小選挙区制になり、国会議員はますます世論動向を気にするようになった。国会議員票が思ったより小沢氏に流れなかったのは、マスコミ報道を見て寝返った議員が多かったからだろう。地方議員やサポーターが菅氏を圧倒的に支持したのも、新聞やテレビの影響が大きかったことは間違いない。菅直人氏の勝利はマスメディアがもたらしたと言っても過言ではない。

 インターネット上では、むしろ小沢氏支持の世論が多数派だった。ネット情報を重視する人々からは、新聞やテレビという大マスコミは既得権者として見られている。そうしたメディアの報道が胡散臭く感じられたことによる小沢支持とも考えられる。とするならば、大マスコミが絶滅危惧種になるのは時間の問題ではないか。(北村肇)

「9.11事件」は、「だれか」が「何か」を隠蔽している

 今年も9月11日を迎える。「9・11事件」を考えるとき、どうしても「御巣鷹山・日航機事故」が頭に浮かぶ。墜落原因は隔壁破裂とされた。99%ありえない。かりにそれが原因なら、急速な気圧変化により乗客は意識を保つのが難しく、機内で書いたと見られる「遺書」の説明がつかない。専門家には常識だ。ボーイング社が直ちに「整備不良」と認めたのもおかしい。本来なら、自社の不利益を回避するため徹底的に戦うはずだ。それもまた米国企業の常識である。他にも首をひねらざるをえない謎が多々ある。

 何より、墜落直後、「墜ちた場所」についての発表がころころ変わった。社会部記者だった私は、たまたま別の取材班にいたため、直接、現場に向かうことはなかったが、当局の発表のたびに同僚が右往左往させられるさまを間近に見ていた。日本の優秀な官僚組織が墜落場所を間違えるなどありえない。報道各社を現場に行かせないための時間稼ぎが行なわれたと考えるのが筋だ。その間に何があったのか。いくつかの情報はあるが、推測を述べるわけにはいかない。ただ、経験上、「大きな力が背後に存在した」ことだけは、言い切ってもいいだろう。

 陰謀論とか謀略論とかいうだけで鼻白む人もいる。しかし、長年、取材現場にいると、そう認定するしかない事件とたびたび遭遇する。刑事事件の冤罪にまで広げれば、ケースはもっと多くなる。なぜ書かないのかと言われることも多い。記事にできないのは、最終的な裏付けがとれないからで、取材側の力量不足がある。だが、「権力」が総力をあげて隠蔽を図ったとき、その壁を崩すのが容易ではないのも現実だ。
 
「9・11」も公にされた”事実”にはあまりにも疑問点が多すぎる。時間がたつにつれ、新たな謎が生まれ、当局発表の異様さを指摘する証言者も増えてきた。本誌今週号に掲載したインタビュー記事もぜひ、読んでいただきたい。事件から8年、「だれか」が「何か」を隠していることだけは、もはや疑いようがない。

 ジャーナリズムの原点は権力監視だ。それはつまり、「強い者」を相手にしたときは、まずもって疑ってかかる姿勢が欠かせない、ということでもある。官僚も政治家も、都合の悪いことは隠蔽に走る。ひどい場合には、でっち上げすら辞さない。私利私欲がからむときは、大体において、そうした動きは表面化する。しかし、たとえば「国益につながる」と彼ら、彼女らが信じ込んだときは、なかなかあぶりだすことができない。だからこそ、ジャーナリストにはもう一つ、欠かせないことがある。あきらめず、しつこく、真実を追求する姿勢である。(北村肇)

私怨と嫉妬のオーラにまとわれた民主党代表選は気色悪い

 この欄で多用している言葉の一つは「既視感」。既視感自体が既視感のようで、不感症になっていくのが怖いほどだ。自民党の派閥抗争が永田町をびっくり箱にしてしまい、それへの憤懣と怒りが生み出した民主党政権。それが一年もたたないうちに、またまた玩具箱をひっくり返してくれるとは――言葉もなし。

 いつから政治闘争の原動力が利権と怨恨だけになったのだろう。「だけ」と強調したのは、人間社会に利権や怨恨はつきものだから、それらがまったくない永田町を夢想したって始まらないからだ。でも、甘いと言われるかもしれないが、少しは理想や理念が闘争の原動力となる時代があったような気がする。

 田中角栄、福田赳夫、大平正芳――こういった政治家には野太いものを感じた。言わずもがなだが、彼らの思想や政策に賛同するものではない。ただ、私=常人とは違う「何か」を持っている。その規格外の存在感こそが一流の政治家たる所以だった。

「三角大福」の争いは現ナマの飛び交う生臭いもので、純然たる政策闘争ではなかった。しかし、それでもここ四半世紀のぶよぶよしたナマコのような戦いとは違い、どこかしら、腹の据わった武将同士のぶつかりあいという風情があったのだ。とともにというか、だからこそというか、派閥選挙に対する野党の批判も迫力があった。

 一連の「菅直人対小沢一郎」騒動は、自民党与党時代に何度も繰り返された学芸会と何一つ変わらない。貧困格差時代に円高、株安が加わり、市民・国民の不安は高まるばかりなのに、そんなことは二の次とばかりに代表選に走り回る。学芸会ではなく、ハツカミズミの運動会か。

 一方、政権奪取の好機であるはずの自民党は、かつての社会党や野党時代の民主党に比べても情けない限り。遠くから「民主党のバカ」と叫んでいるだけで、一向に動きだそうとしない。本来なら、今こそ「我が党の経済政策はこうだ。民主党に任せていては日本が滅びる」と立ち上がるときだろう。

 それにしても破天荒な政治家が減ったなとしみじみ思う。枠にはまりこじんまりとしたセンセイ同士が湿り気のある視線を投げかけ合う。いよいよこらえきれなくなると、徒党を組んで「敵」をつぶしにかかる。小物なのだ。「小・鳩・菅」みんな大差ない。嫉妬と私怨がオーラになってまとわりついている。気色悪い。(北村肇)

「強い日本」ではなく「ひ弱でも凛とした日本」がいい

 どこでもかしこでも聞こえてくるのが「このままでは日本はだめになりますよ」という嘆き節。そこには「自虐的でひ弱な”我が国”への叱咤」と「新自由主義に毒された”この国”への危機感」という違った意味が込められる。前者は日清・日露戦争時代の明治回帰を主張し、後者は米国からの自立を求める。

「韓国併合」から百年。当時も今も「韓国を西欧列強の手から守り民主化するにはこれしかなかった」という説が根強くある。明治回帰者が夢見る「強くて正しい日本」。だが、これは、米国が日本を抱きかかえて占領したときの論理と基本構造は同じだ。ベトナム戦争やイラク戦争の主要な理屈も「共産圏や独裁者から守るため」だった。

 どんなきれいごとを並べようと、他国への侵略目的は権益確保以外の何物でもない。正義の占領や正しい併合など存在しようがないのだ。最近の研究によれば、日露戦争はロシア側が仕掛けたとみられる。日本側は政府も元老・山県有朋も開戦には消極的だったようだ。しかし、朝鮮半島を支配下に置きたいという野望は一貫して変わらなかった。その目的を果たすために「満州利権はロシア、朝鮮利権は日本」という外交に出たにすぎない。日清戦争もまた、朝鮮利権が根底にあった。韓国の強制併合は「明治・日本」にとってまさに長年の夢だったのだ。

 だが、「自虐史観」批判を展開する人たちにとっては、植民地政策はまっとうで避けられない政策だったということになるのだろう。だから、日本が米国属国化(植民地化)している現状については反旗を翻さないのかとうがった見方をしたくなる。菅直人首相が韓国併合百年に関する談話を出したことに対し「いつまで謝罪し続けるのか」と怒るなら、なぜ米国に「ヒロシマ・ナガサキを謝れ」と主張しないのか。「我が国」の尊厳を大切に思うなら、大いに矛盾しているのではないか。

 この国で生まれ育ったのだから、「日本」を誇りある国にしたいと考えるのは、保守も革新もなく当然だ。だからこそ私は、軍事力で他国に攻め入るくらいなら、ひ弱でも凛とした国のほうがはるかにましと思うのだ。植民地化に走った過去の歴史を深く反省し、被害者に謝罪するのはその一歩である。何かにつけて優勝劣敗思想にこりかたまる米国に、対等の立場で物を申すのが次の一歩だ。
 
 そして、何よりも、憲法9条、25条の具現化こそが、確かな日本再生につながる。(北村肇)

「老成化」した政治家・辻元清美氏をしばらく凝視したい

 98歳の詩人、柴田トヨさんの作品集『くじけないで』がベストセラーになっている。詩集としては異例のヒットだ。生きることのしんどさは十分、わかっている、でも生きることはすばらしいのよと、無意味な飾りを施さない言葉で、淡々とおだやかに語りかける。しかも、浮世離れすることなく、常に「社会」を真っ直ぐに見据えている。世代を超えて人々の胸をうつのは肯ける。

 歳をとるのも悪くないなと実感したのは50歳を過ぎてからだ。柴田さんの詩に触れ、さらに一歩進んで、歳をとることの幸せを感じるようになった。窓から入る陽の光やそよ風を手ですくいとるなどの芸当は、若いころにはとてもできなかった。確執の対象でしかなかった親に素直になれるのも「老い」のおかげだ。

 本誌今週号で登場願った辻元清美さんに初めて会ったのは20年以上前。若さが全身を覆っていた。土井たか子さんの勧めで政治家になり、根っからの努力家ということもあり、めきめきと頭角を表す。だが、逮捕、議員辞職と奈落の底に。さまざまなデコボコ道を歩んだ末、連立政権では国交省副大臣という要職に就く。インタビューの中で「私は調整型」と幾度も繰り返した。確かに、激動の永田町を生き抜いたいまは、良きにつけ悪しきにつけ老成化したようにみえる。「社民党離脱」も、本人なりにしっかりした計算に基づいての行動なのだろう。

 当然、賛否両論ある。現時点では、私も納得のできないことが多い。社民党の古色蒼然とした労組頼りの体質には違和感がある。しかし、それを打ち破ろうとした土井さんに請われて旧社会党に入ったのではなかったか。辻元さんに対する周辺の期待もそこにあった。野党では現実を動かせないという考え方にも賛同しかねる。政治の役割とは、現実を理想に引き上げることにある。浅薄な現実主義がマイノリティの排除につながりかねないことは、誰よりも辻元さんが知っているはずだ。
 
 とはいっても、彼女を孤軍奮闘の立場に追い込んでしまった責任は多くの人間にある。市民運動的立場で動いていた議員はひとりふたりと社民党を去った。体質を変えようにも、現実を理想に引き上げようにも、一人ではどうしようもない。その苦境を乗り越える絶好の機会が連立政権発足でもあったのだ。
 
 老成化が「命」への感度を高めることにつながるのか、単なる根回し上手にとどまるのか、しばらくは政治家・辻元清美を凝視したい。(北村肇)

唯一の被爆国である日本こそが、唯一の原爆投下国・米国に核廃絶を求めるべきだ

「ヒロシマ・ナガサキ」から6年半後に私は生まれた。身の回りの大人に戦争の恐怖やばからしさをさんざん聞かされた。だが、原爆の悲惨さについては、とんと記憶がない。下町だから東京大空襲の話題が大半を占めたのは仕方がない。とはいえ、地球レベルでは「20世紀最大の出来事」といわれる惨禍が、強い印象をもって語られなかったのは不可思議だ。

 米国の日本占領政策の主要な柱に「加害者すりかえ」があった。戦争を引き起こしたのは暴走した軍部であり、天皇も一般国民も被害者だ。米国はその被害者を一刻も早く救うため原爆投下に踏み切った――。史上最悪の戦争犯罪は意図的に意味を変質させられ、日本はあたかも「解放者」として米国を受け入れたのである。

 こうした事実をみたとき、「ヒロシマ・ナガサキ」は初めから風化させられる運命だったのではないかと考えてしまう。あまりに巨大な事象はその衝撃の大きさにより、かえって現実離れしてしまうということはある。だが、たとえば、首相就任を目前にした鳩山一郎氏が公職追放されたのは、原爆投下に批判的だったからとも言われる。日本統治のため、米国が「ヒロシマ・ナガサキ」の本質から目をそれさせようとしたのは確かだろう。

 オバマ米国大統領のプラハ演説をきっかけに、「核」なき道への希望が高まったようにもみえる。オバマ氏が、米国大統領としては初めて広島・長崎を訪れるのではないかとの声も永田町では出ている。だが、私は楽観的な気持ちにはなれない。いま世界に現存する核兵器は2万3000発。人類を何度か滅ぼすことが可能な数だ。最大の所有国は米国であり、唯一、核兵器を使用した国でもある。もし、世界から核を一掃するなら、まずは米国が実践するしかない。

 さらに言えば、「核」なき道は、最終的に戦争なき道につながるはずだ。しかし、米国はイラクからもアフガニスタンからも撤退せず、オバマ大統領は、アフガニスタンではさらなる軍事力強化を図ろうとしている。はっきり言おう。米国を信用できないのだ。

 日本はいつまで、こうした加害者の「核の傘」に覆われているのか。核なき世界への第一歩は、わずか65年前、現実に原爆を落とされた日本こそが、「核兵器を廃絶せよ」と米国に迫ることである。その権利はあるはずだ。しかし、一方で、対米自立を唱える識者から「日本は自前の核を持つべき」という論調が目立ち始めた。米国と対等関係を結ぶことが核武装に向かったのでは、これ以上の矛盾はない。(北村肇)

炎天下に「権力」という名のシミをさらしてはどうですか。議員のみなさん。

「心頭滅却すれば……」と言うが、「頭」はともかく「心」のありようで確かに「暑さ」の感じ方も変わってくる。気分が前向きのときは、ギラギラした陽光が、心身に染みついたカビを一掃してくれるようで、全身を開放したくなる。じめじめした梅雨よりは余程いいやと、したたり落ちる汗がちっとも苦にならない。

 太陽の真下をイメージし、不快なこと、許せないこと、恨みごとを取り出しては溶かしてみる。あとに残るのは、清々しい気分と慈しみの心。ここまでは完璧だが、所詮、完璧ではありえないのが人間の性。数時間後にはすでに怒りや憎しみに侵される。やれやれだが、でも、時折、カビの一掃を図るのは悪くない。

 参院選に揺れた永田町。表面上は夏休みに入るが、水面下では、秋の民主党代表選に向け、国会議員には暑すぎる季節が訪れる。まあまあ、そんなに焦らず、ここはじっくりと自省してみてはどうか。特にお勧めなのは、「権力」という名のシミを日光にさらし、自分という素裸の「命」に向き合うことだ。

 誤解されるかもしれないが、私は「権力」を全否定はしない。何事においても事態を収拾したり、推進したりするためには「力」が必要となる。有無をも言わさず、反対を押し切って信ずる道を切り開かざるをえないときもある。だからこそ、権力を持つ者は孤独に、そして真摯に、私利私欲を極限まで遠ざける姿勢を持ち続けなければならないのだ。

 翻って、いま、この国の為政者の多くには権力者の資質も資格もない。沖縄の米軍基地問題は、米国、ゼネコン、国会議員、官僚といった、力を持つ者の欲が背景にある。消費税率アップは、輸出産業を主とした大企業の欲が見え隠れする。

 さて、永田町では、民主党、自民党の「大連合」が再び、ささやかれている。参院選の結果、民主党は絶対的な第1党の座を滑り落ちた。いわば第1・5党と第2党が手を結ぼうというわけだ。実現したら、かつてない巨大な権力党が誕生する。この欄でも触れたが、日米軍事同盟の強化という点で両党の違いはなく、辺野古沖への米軍基地建設は簡単に実現してしまう。消費税率アップは、もともと自民党が言い出し、民主党が相乗りした。これもまた、他党が反対しても国会を通ってしまうだろう。

 私利私欲に走る国会議員は「絶対権力」に大きな魅力を感じる。大連立が抱える落とし穴もそこにあるのだ。民意無視とはつまり、人間性喪失の政治でもある。(北村肇)

市民は社会の主人公であり、国の主人公でもある

 人はそんなに強い生き物ではない。だれかにもたれかかり、ようやく息ができる。でも、これは意外に「強い」とも言える。みんながそれぞれもたれあえば、結構、頑丈な構造物になるからだ。このことを知ってか知らずか、「自己責任」を押しつけようとした面々がいる。「人に頼るな。自分で努力しろ、戦え」。

 こうした、新自由主義に凝り固まった連中の言葉には裏がある。「人に頼るな」には「国に頼るな」の意味もこめられているのだ。かくして格差社会が作り出され、そこでは、「悪いのは自分だから」という自己批判に追い込まれた人々が、国からも社会からも見捨てられた気分に陥り、漂流を余儀なくされる。

 国の主人公が市民であるのは論をまたない。当然、私たちには国に頼る権利がある。だが、悪知恵のきく国は、「だったらお上の命令に従え」とつけ込んでくる。冗談ではない。安心して頼るためには「相手が裏切らない」ことが前提だ。その信頼感がいまの「日本国」にはない。もたれた途端にすっと避けられたのでは、たまったものではない。ただ、矛盾するようではあるが、自分たちの社会は自分たちでつくるという意識も一方で必要だ。国会に丸投げしていたのでは、いつまでたっても暮らしやすい社会は実現しない。

 本誌今週号「参議院選挙の連続特集4」は、NGOで活動する人たちから「政権に何を求めるか、自分たちでどう社会を変えていくか」の声を集めた。昨秋に政権交代を実現したのは、有権者の「力」である。参院選で菅直人政権に待ったをかけたのも有権者の「力」。だが、マスメディアは単純に、政党の勝った負けたしか報道しない。

 いまの新聞・テレビに決定的に欠けるのは、「市民の視点から」という姿勢だ。マスメディアが「主人公」としているのは、常に国会議員であり官僚であり、一部の知識人と称される人間だ。国家を直接、運営するのが議員、官僚であるのは当然。しかし、社会を動かすのは国家機関だけではない。市民の意志が大きなウエイトを占める。このことへの思いが新聞・テレビには希薄すぎる。

「小さな政府」を信奉する新自由主義者の根底にある発想は「競争」だ。民間企業の競争に任せれば、政府の持ち出しは少なくなり、勝ち組企業から上がってくる税収も増える――。労働者の使い捨てや格差・貧困社会を生み出す負の面はすっかり捨象されている。市民が求めるのは、競争社会ではなく、信頼の社会だ。みんながもたれあえる、しなやかで強い社会こそが「真に豊かな国」につながる。(北村肇)