編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

小泉首相よ、サプライズ作戦もいいが、そろそろ、市民生活にプラスになる政策の実現に本腰を入れたらどうか

 「奥の手」は二度使ってはあまり効果がない。それでも小泉首相は訪朝した。そうせざるをえなかったのは、要は、追い込まれているからだ。
 
 逼塞した社会では、刺激が求められる。小泉流サプライズ作戦が功を奏した理由の一つもそこにある。自民党をぶっ壊すという物言いも、ハンセン病問題の対処も、最初の訪朝も、大いに市民を驚かせ喝采を浴びた。実は、管直人氏が厚生相時代に、エイズ問題で人気を博したのも同様の構図である。

 派閥の微妙なバランスのもとで、連綿として続いてきた永田町の猿芝居、へたとしか言いようのない演技者=議員。いい加減あきあきしていた観客=市民にとって、小泉首相は格好のタレントであり、そしてまた、そこに市民が魅力を感じることを、彼は知悉していたのだろう。

 だが刺激は長続きしない。とともに、市民は次の、もっと激烈な刺激を要求してくる。その時政治家は、本来なら「まったりとした充実感」を提供しなくてはならない。派手さはないが、市民生活にプラスになる政策の実現だ。「これこそが私たちの仕事です」と自信をもって提示すれば、多くの市民は納得するはずである。この時点で、単なる「人気者」は、大衆の認める「実力者」になる。

 ところが小泉首相は、一貫して刺激に賭けてきた。人気に陰りが出てきたのを見計らったような再訪朝もしかりである。むろん、拉致問題解決は誰もが望むことだ。しかし政治利用を良しとする者はいない。麻薬のごとき「支持率」にがんじがらめになった為政者は、それをどう考えるのか。

「奥の手」とは、もともと左手を指す。何本もあるわけではない。(北村肇)

国家に管理される痛みに比べれば、「自由」のもたらす苦しみのほうが、はるかに人間的だ。

 学生帽、学生服が大嫌いだった。それでも中学生のときは、先生に叱られるのが嫌で、仕方なく身につけた。高校に入った一九六七年はいわゆる「学園闘争」真っ最中。たまたま生徒会役員になると、上級生が「こんな軍国主義の異物は拒否しよう」と、学帽・学生服廃止運動を提起した。もちろん大賛成!。
 
 結局、生徒の要求は通り、学帽は二年後、翌年には学生服も廃止された。自由になった途端に卒業ということになったが、満足感は残った。ところが、大学生になってからしばらくして出身校を訪ねると、みんな学生服を着ているではないか。

「いったい、どうなったんだ」と後輩に聞くと、「服装は自由ですが、学生服のほうが面倒くさくないので」という答えがしらっと返ってきた。「みんなと同じほうがいいし」とも。
 
 人間は所詮、社会では、「枠」がないと生きられないのだろうか。国、会社、家族、性別、年齢…すべては目に見えない線引きで成り立っている。そして「枠」があれば、そこには必ず優劣が生じる。国家権力はそれを巧みに利用して市民を管理、「お上の言うことに逆らわない」タイプの人間を量産するのだ。だが大衆は「長いものに巻かれたほうが生きやすい」という選択をし、そこから“はみ出た”人間を「非国民」としていじめの対象にする。

 本誌今週号で特集したように、すでにこの国は「監視国家」「管理国家」として暴走し、一人ひとりの人権をないがしろにしている。しかし大半の市民は、そのことに目をつぶっているかのごとくの風情で、日々暮らしている。一方、“自立した”人間は、そんな社会に窒息しようとしている。

 本来、「生命」は自由そのものだ。どこにもくびきはない。だからこそ、みんな思うように自分がコントロールできず、苦しむ。そしてこの苦しみは、権力に管理される痛みに比べれば、はるかに人間的なはずである。(北村肇)

社会を覆う「腐れ魂」の饐えた匂い。「人間らしさ」を失った永田町の権力者と、エセジャーナリストがもたらす。

 この饐えた匂いは何かと、連休中、頭をめぐらせてみた。いや実は解答は初めからわかっていたのだ。ただ、思い込みで判断を狂わせてはならないので、じっくりと再確認してみたかった

 やはり結論は変わらなかった。すべては「腐れ魂」がもたらすものであると。

「イラク派兵」「憲法改正」と得意げにわめきちらす国会議員。その顔には共通の特徴がある。「人間らしさ」を感じないのだ。テレビ画面でも写真でも、じっと見ていると背筋が冷たくなる。異星人のようで怖い。何をされるかわからない恐怖だ。

 価値観や人生観の違いは誰にでもある。だがそういうレベルではない。すべての人間には同等に生きる権利があるという、ごくごく基本的なことを意識的に拒否している、それが顔に出ているのだ。人への慈愛がまったく欠如している。まるで、人間としての魂が腐っているかのごとくに。

 でなければ、日々、無辜の民が生命を奪われているのに、「テロに屈しない」「人道支援」などお題目を唱えるだけで、平然としていられるはずがない。侵略戦争も、人の生命を基盤に据えていない者にとっては、一つの“ゲーム”にすぎないのではないか。

 イラクで誘拐され解放された人たちをバッシングするマスコミ人もまた、そういえば“ゲーム”に熱中するタイプが多い。特ダネ競争という“ゲーム”に勝つためには人権侵害も平気、という連中だ。私もかつてはその一員だっただけに、よくわかる。おうおうにして、特権階級にあぐらをかき、弱者を見下ろすようなヤツが勝ち残る。そして、そうした輩が権力にすり寄ると、魂が腐り始める。

 永田町の権力者とジャーナリズム精神を失ったメディアが手を結んだとき、社会は健全な魂を失う。 

 五月。都心とはいえ、ちょっとした脇道に入ると、まだジャスミンの香りなどが鼻腔をくすぐる。饐えきった匂いを忘れる、一瞬の快楽にすぎないが。(北村肇)