編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「生命」や「人間」の深遠さに思いがいたらないジャーナリストは、報道に携わる資格がない

 足の小指を動かせますか?
 耳を動かせますか?
 できた人は、今度は胃を動かしてみてください。

 ジャーナリスト志望の若者を相手に講演を頼まれたときは、こんな戯れ言をけしかけることにしている。大抵は、みんなきょとんとしている。
 
 解説はこうだ。
「みなさんは無意識に、自分の肉体は自由にコントロールできると思っていませんか。でもそれは手足などごく一部にすぎません。内臓や、まして細胞は、自分のまったく手の届かないところにあるのです」
 
 あとは語らない。自分で考えて欲しいから。無論、本当に告げたいのは、「肉体だってそうなのだから、心はもっと不思議な世界。つまり『人間』は、奥の深い、それ自体が『神』と言ってもいいような存在なのだ」ということに尽きる。だからこそ、ジャーナリストは常に、「人間」に目を向ける必要がある。「生命」にとしてもいい。
 
 たとえば、「イラクのファルージャで500人の市民が殺された」と報じるとき、記者は「500人の生命」ひとつひとつに思いを寄せることができるだろうか。「多国籍軍参加」のニュースの向こう側に、大国が引き起こした戦争によって、これからも失われるであろうイラク人の生命を意識できるだろうか。要は、そういう問題なのだ。

 ときとして、官僚や政治家は、外交や政治をゲームとしてとらえる。そこには「人間」も「生命」もない。あるのは「勝つ」ことの興奮ばかりだ。ジャーナリストの仕事は、絶えず「人間」を念頭に置いたうえで、そんな彼らをいさめることであり、その実態を市民に明らかにすることである。

 イラク戦争報道も参院選報道も、「生命」の視点がなくては話にならない。にもかかわらず、一緒にゲームに興じるマスメディアが多すぎる。市民をコマとしか思わないジャーナリストがいたら、それは官僚や政治家より始末に負えない。(北村肇)

小泉純一郎氏がなぜ首相にふさわしくないか、集中連載「小泉純一郎研究 『人気者』の正体を暴く」で明らかにする

 時代が人を選ぶとすれば、やはりとんでもない時代になったということなのだろう。「小泉純一郎」という、およそ首相にふさわしくない人物が長期政権を保ち、しかも高い支持率を維持しているのだから。
 
 かれこれ十数年前、小泉氏とコーヒーを飲んだことがある。雑談の内容は忘れてしまったが、結構、好印象を抱いた。何より、経世会的政治家の漂わす生臭さがないのが好ましかった。同席した政治部記者に後日、その話をすると、「だから、力を持てないんだよ」と言い放った。むろん、彼が首相になるなど、二人とも夢想だにしなかった。
 
 見通しの甘さと、人を見る目のなさに赤面する。しかも、力のない政治家が、永田町のトップに登り詰める、そんな時代の到来を予測できなかったことが口惜しい。
 
 小泉人気は「建前をぶち壊すホンネ」にある。密室性の政治と建前の行政にとことん不満がたまったところへ、バブルの崩壊。そんな閉塞状況のもとでは、「ホンネ」が人気を博すのは当然の流れだ。そこまでは誰でも読める。

 だが政権が続くにつれ、小泉流ホンネの内実は、単なる開き直りと、官僚への丸投げであることがはっきりしてきた。庶民受けする「歯切れのよい」言葉が、実はあまりに軽く人をばかにしていることは、「人生いろいろ」発言で明白になった。「痛みを伴う構造改革」の背後に、福祉切り捨てなどなんのその、「何がなんでも財政赤字解消を」と意気込む財務省の思惑が潜んでいたこともしだいに明らかになりつつある。

 こうなれば、人気の反動で小泉株は一気に下落――のはずだった。だが、依然として大衆は小泉支持に回っている。

 ここまであからさまな開き直りを、しかしそれでも大衆は受け入れる時代になると予測。そのうえで、小泉氏をかついだ官僚や政治家がいたとしたら、その悪辣なる知恵に脱帽するしかない。

 といって、こちらも引き下がるわけにはいかない。小泉氏が首相にふさわしいかどうか、「事実」をもって検証する。今週号からスタートした「小泉純一郎研究 『人気者』の正体を暴く」をじっくり読んでいただきたい。(北村肇)

こんな時代、もっとも困った存在は、熱湯でも生きられてしまう、無意識の「ゆでカエル」だ。

「ゆでカエル」という言葉を聞く機会が増えた。説明するまでもなく、じわじわと迫ってくる危機には意外に気付かず、「しまった」と思ったときには後の祭り、のたとえだ。

 人間は、カエルよりさらに鈍感かもしれない。かりに10年前、「自衛隊のイラク派兵」とか「多国籍軍に参加」とか政府が言い出せば、大騒ぎになっていただろう。それが、安保再定義、PKO参加など、少しずつ水温が上がり、多くの市民が熱さに慣らされてしまった結果が「今」だ。

 数年前、新聞社・通信社の労働組合で作る「新聞労連」の委員長をしていた際、日経連が打ち出した「新時代の日本的経営」に対する反対運動に力を注いだ。「雇用の流動化」という名目の元、正規労働者を極力、減らし、その分をパートやアルバイトで補おうという政策は、さまざまな“毒”をはらんでいた。高賃金の高年齢社員のリストラ、労働組合つぶし…。

 だが正直いって、当時は組合員に、それほどの危機感がなかった。財界の「戦略」がよく見えていなかったのだ。新聞労連の組合員ですらそうだったのだから、まして一般市民にとって、「新時代の日本的経営」は遠い世界の言葉だった。大手メディアが批判的に報道することも、ほとんどなかったし。

 本誌今週号で特集したように、こうした財界の戦略は国家戦略にリンクし、気がつくと、日本は「戦時」の色合いを濃くしていた。ゆでカエルはまたまた、「いつの間に?」と首をひねることになる。

「しかし」とむりやり考えてみた。「人間には環境適応力もあるよな。だから、いつしか高温でも普通に生き延びられる体質になったりして」。ここで「うんうん」と納得してしまったら、ますます知恵のないカエルになってしまう。

 もっとも困った存在は、「しまった」と気づかないまま、体質が順応してしまう、まさに無意識のゆでカエルなのである。「国を守るためには、徴兵制が欠かせない」と言われても、ゆだった頭のまま「いいんじゃない」と言ってしまうような。    (北村肇)

「歴史」に翻弄される側(大衆)が権力を下支えすることで、「戦争の歴史」は生まれた。いままた、その轍を踏もうとしているのか。

「歴史」を書きとどめるのは権力を持った人々。「歴史」に翻弄されるのは市民。当たり前とあきらめてしまえば、それまでなのかもしれないが、こんなニュースを聞くと、いたたまれなくなる。

 訪朝から戻った小泉首相を非難した拉致家族に対し、バッシングのメールや手紙などが相次いだという。特にテレビで、そのシーンが放映されてからがひどかったようだ。

「家族会」に関しては、いささか政治利用された面もあり、危うさを感じなかったわけではない。何がなんでも日本側の要求を通させるということが、外交上困難なことも現実だ。だが、それでもなお、国家に肉親を拉致された被害者が、首相に対し様々な思いをぶつけたくなる心情は理解できる。「礼儀しらず」との批判があったが、被害の重みを考えたら、そんな非情なことがいえるはずもない。
 
 多くの人が語ったように、イラクで誘拐された五人への攻撃と、今回のバッシングは構図が似ている。被害者を「生意気」との理由で加害者にしてしまうのは、「自分より弱い人間なら助けてあげるが、調子に乗ったら許さない」という心理が働いてのことだろう。潜在的に「社会の中で自分は被害者」と思っている市民が多いことの証左かもしれない。

 もう一つ、こちらのほうが深刻だが、「お上にたてつく」ことが問題という風潮だ。権力は必ず腐敗する。だから、監視し批判するメディアの役割が大きい。だが今や、本誌今週号で取り上げた「アルカイダ幹部逮捕」の報道が如実に示すように、“垂れ流し”としか言いようのないニュースがあふれる。常時、そうした報道に接した市民が「体制派」になるのは必然の流れだろう。

 振り返れば、翻弄される側(大衆)が権力を下支えすることで、「戦争の歴史」が生まれたのではなかったか。すうっと寒気が走る。(北村肇)