編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

年金改悪の一方で軍事力強化を目指すような政治家に、「愛国心」を唱える資格はない

 母方に二人の祖父がいた。
  
 実の祖父は、身よりの居ないお年寄りが収容される老人施設で、息を引き取った。義理の祖父は長期入院の末、決して設備がいいとはいえない病院のベッドで亡くなった。
  
 資産もなく借金もなく、国に特別面倒をみてもらうことも、社会に迷惑をかけることもなく、逝った。

  数年前、スウェーデンの老人ホームを訪れた際、ふと祖父のことを思いだした。九○歳代の女性が、きれいに着飾りお化粧をし、買い物用のワゴンを杖代わりに街に出ていく。屈託のない笑顔でそれを送り出す職員。こんな世界のあることを、二人は知る由もなかったろう。
 
 会う人が口々に、「税金は高い。でも教育も老後も、みんな面倒みてくれるのだから」と語る国。それはおとぎ話でも夢物語でもない。

「愛国心」をひたすらに叫び続ける日本の与党議員は、「黙っていても愛したくなるような国をいかにつくるのか」ということに腐心しているとは思えない。実は簡単なこと。困ったときに面倒をみてくれればいいのである。老後や失業や、大病したときの不安が軽減されるだけで、人はこころ豊かになるものだ。

 逆に、不安感にかられたとき、人はときとして自暴自棄になり、社会秩序を乱すこともある。スウェーデンでは深夜も明け方も、女性が一人で街を歩いていた。路上にはたばこの吸い殻もなかった。

「北欧にだって問題がある」としたり顔で話す人がいる。そんなことは当たり前だ。完璧な国家などありようがない。でも少なくとも、年金改悪の一方で軍事力強化を目指すような国よりはいい。「介護は家族の責任だ」と、単細胞的に言い放つ国会議員がいないだけでもいい。(北村肇)

お上にたてつくのは、どうしたって少数者。でも、とにかく「やるっきゃない」。

 気がつくと眉間に皺が寄っている。日差しのせいかと思ったが、どうも違うようだ。そういえば、ささいなことでイライラするようになった。いよいよ男性更年期かと考えたが、そう断定するには根拠が薄弱でもある。
 
 知人の言葉が頭に浮かんだ。「最近、孤立感があるんだよね」。といって、それは身の回りの人間との関係ではない。大衆からの疎外感だ。ひょっとして自分も同じような“病い”に陥っているのかもしれない。

 ジャーナリズムの世界に長らく身を置き、権力批判はあらゆる細胞に宿っている。「お上にたてつく」人間は決して多数派にはなりえず、それなりの覚悟もしている。とはいえ、「世間の常識」はある程度わかっているつもりだし、さほど乖離していると思わずに来た。だが、ときにその自信が揺らぐ。

 参院選で小泉自民党は敗北した。それでも「総理の座を去れ」という声はあまり高まらない。大衆の小泉離れは確かにしても、そこまでの切迫感はなかったということか。結局、なんだかんだ言っても、真の意味での「変革」は望まないということか。意外だ。

 平和集会などで、参加者が“不当”逮捕される例が増えてきた。ビラまきだけで長期間勾留される事件も相次いだ。だが大衆の感度は鈍い。怒りに立ち上がるのは、ごく少数だ。

 ふと妄想に襲われる。「こんな国に住んでいたくない!」と、居酒屋で生ビールを飲みながらおだをまいていたら、突然、客と店員みんなが、ものすごい形相でにらみつけてきた。「話せばわかる」と犬養首相のようなことを言ったところで、聞く耳を持たない。「非国民!」「お前みたいなヤツがいるから日本はだめになるんだ!」。口々に叫んでは、じりじりと押し寄せてくるーー。

 別に卑屈になっているわけではない。もちろん、この際、長いものに巻かれてみようなど、微塵も考えていない。ただ、「少数者」の悲哀や憤りが、やりきれなさとともにこみ上げてくるのはどうしようもない。

「でも」と続いた知人の言葉。「やるっきゃないよ」。目的語はなかったが、私も「そうだよな」と肯いた。ほんの少し、眉間に皺を寄せて。(北村肇)

仮面がぼろほろになった素顔のあなたに、首相は無理だ。さらば、小泉純一郎。

 どこが潮目だったのか。小泉自民党が「大勝」から「敗北」へと転落したきっかけは、「人生いろいろ」発言だったような気がする。
 
 それまでも、過去の首相だったら、とうに吹っ飛んでいるような失言を、小泉氏は繰り返していた。だが大衆はことごとく受け入れてきた。怖いものなしの”ホンネ”に喝采を送ったからだ。マスコミが、はりぼて首相を内実が伴うかのごとくに演出したことも見逃せない。
 
 調子に乗った小泉氏は、「熱しやすく冷めやすい」という古典的な格言すら忘れていたのだろう。民心が離れ始めていることに、ぎりぎりまで、いや投票結果が出るまで気づかなかったのかもしれない。
 
 ホンネと開き直りの違いは「自己防衛」にある。自らの地位、既得権はかなぐりすてても、建前を突き崩すのが前者。自己を守るために強弁するのが後者。総裁選のとき、「自民党をぶっ壊す」と叫ぶ姿は、これまでの政治家とは違う清新な雰囲気を醸し出した。派閥も地位も関係ない、市民の支援だけが頼りという悲壮感も受けた。

「痛みを伴う構造改革」というスローガンすら、「口当たりのいいことばかり言う歴代首相に比べ、ホンネで語っている」と、むしろ肯定的に受け止められた。

 だが、いつまでたっても「改革」は進まず、一方で「痛み」だけが増す実態に、さすがの大衆もイライラし始めていた。そこに年金改悪。「これまでの政権とどこが違うのか」と疑問が沸点に達しかけていたとき、本誌はいち早く、小泉首相の厚生年金疑惑を取り上げた。さすがに、この問題に関しては謝罪するだろうと思った。だが、国会の場で、小泉氏の口から出たのは「人生いろいろ 会社もいろいろ」。まさに開き直りの典型だった。

 その瞬間、人気宰相の仮面はぼろぼろと崩れ落ちたのである。

 これからは今まで以上に、「反改革派」や公明党の顔色をうかがわない限り、政権は維持できない。そして、そんな「小泉純一郎」を支持する有権者は少ない。

 素顔のあなたに首相は無理だ。さらば、小泉純一郎。(北村肇)

参院選の結果が明確に示したのは、大衆人気だけが頼りだった小泉流変革が、その支持を失ったということだ

  パラダイム(基本枠組み)が大きく変化するときは、針が一本、床に落ちただけの衝撃でも、きっかけになるという。まさに熟柿が落ちるのたとえ。
 
 小泉氏が首相になれたのも、「変革」のスローガンが「一本の針」となったからだ。社会全体に「変革」を求める機運が充満していた、その瞬間の登場だった。「運」と「勘」の総理といわれる所以でもある。
 
 それから三年、今回の参院選では、小泉体制を容認するのか、それとも再びの変革を求めるのかが問われた。常識的には、三年足らずでパラダイムの変化など起きようがない。しかし有権者は後者を選んだ。そもそも、「忘却の国民」と言われる日本では、人気者がある日突然、その座を追われることなど珍しくもないのだ。
 
 小泉政権誕生とともに、リストラを進め、人事制度に業績主義を導入する企業が相次いだ。中高年の世代に「痛み」を押しつけることで、企業の業績をあげようという狙い。それはまた、小泉流「自己責任」の具現化でもある。自分の生活は自分で守れ、そのためには競争に勝て、というわけだ。

 だが、年功序列を無視し単純に導入された業績主義は、すでにあちこちで破綻している。それはそうだろう。いたずらに競争をあおればチームワークはがたがたになる。もともとこの国に、優勝劣敗思想はなじまないのだ。

 しかも時流に乗った「変革」が、年金制度改悪でもはっきりしたように、実は財務省の財政再建政策をただ踏襲しているだけであることがはっきりしてきた。本誌連載の「小泉純一郎研究」で詳述した通りだ。

 さらには、多国籍軍参加問題で浮き彫りになったように、「米国追従」の軍国路線も綻びだらけである。そのいい加減さに関しては、いまさら説明の必要もないだろう。
 
 それらを覆い隠してきたのは、マスコミを巧みに利用して作り上げた「人気宰相」の仮面だった。だが「人生いろいろ」など、あまりに市民をバカにした発言が相次ぎ、さすがの世論も一気に小泉離れに向かった。それにもっとも気づくのが遅れたのは当人だろう。

 かくして、小泉流変革は大衆の支持を失った。だがそれは、大衆が民主党を支持したことにはつながらない。小泉氏並み、あるいはそれ以上に優勝劣敗思想に凝り固まる民主党議員もいる。有権者が彼らの本質を知るのに、そう時間はかからないはずだ。(北村肇)

毎日、身の回りの二人に、「当選させたくない候補者」について話をしてみよう

 幸せになる最も有効な方法を、あるとき思いついた。とことん不幸になることだ。耐えられないくらいのどが渇けば、どんなに塩素くさい都会の水道水でも、きっとおいしいだろう。

 小学生のころ、病いで長期に学校を休んだ。毎日、通院しては注射を打ち、あとは家で寝ているだけ。まだテレビもない時代だ。ようやく床から離れたとき、あれほど嫌だった勉強が、ちっとも苦にならなかった。

 いま病床にいるわけではない。が、病んだ社会に住んでいるという感覚は拭えない。ふと、この際、日本も行くところまで行ってしまったらどうか、と思ったりする。参議院選挙では自民党が大勝。憲法は改悪され、自衛隊は名実ともに日本軍となる。徴兵制とともに、治安維持法も成立。政府批判をすれば即逮捕ーー。
 
 ここまでくれば、平和憲法のありがたみは身にしみてわかるのではないか。だが、これは冒頭のたとえには重ならない。まずい水でもおいしく感じるのは、管理国家の中で、少しばかりの自由をありがたく思ってしまうことにつながるからだ。一度失った「平和と自由」は、そう簡単には取り戻せない。
 
 結局、自暴自棄からは何も生まれないのだ。では、どうしたらいいものか。

 この際、一日二人に、「当選させたくない候補者や、議席を増やしてほしくない政党」について話してみるというのはどうだろう。理解してもらえたら、その人にはまた、知人などに伝えてもらう。

 やはり、幸せは小さな努力の積み重ねがもたらすものだ。(北村肇)