編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

高校野球にオリンピック。二大不愉快イベントの背景にあるのは、幻想の“連帯”を求める大衆への、メディアの迎合だ

 スポーツを観るのは嫌いではない。だがうんざりするときもある。「ニッポン勝った」と大騒ぎするオリンピック。「涙と感動」を強要する高校野球。なんと今年は、この二大不愉快イベントが、こともあろうに不快指数極限の猛暑の中をやってきた。
 
「観なければいいのに」と言われるかもしれないが、ことはそれほど単純でもない。 

 実はオリンピックも高校野球も、大手メディアにはタブーだ。「批判しにくい」のである。後者の取材は新聞記者時代、何度か経験した。たとえ礼儀知らずの生意気な高校生でも、「黙々とがんばる」球児に描かなくてはならない。これは同僚記者の話だが、ある年、ひとりの球児がアイドルタレント並みに騒がれた。地元では有名なツッパリで、シンナーや覚醒剤の情報もあった。だが主催者の朝日新聞(夏)、毎日新聞(春)だけではなく、どの社もスター扱いの紙面展開に終始したという。

 似たような話はいくらでもある。なぜか。読者のクレームが殺到するのはもちろん、部数が減ったり、広告が入らなくなったりするからだ。

 オリンピック報道も同様で、金メダル候補の批判をしようものなら大変。読者、オリンピック委員会、スポンサーなど、あらゆる方面からバッシングを受ける。そうこうしているうち、メディアの中に自己規制が働き、選手はみんな「さわやかなアスリート」になってしまう。
 
 根底には、幻想の“連帯”を求める大衆への、メディアの迎合がある。日本や地元高校を背負い、心を一つにして勝利の栄冠を目指すーーその感動に溶け込むためには、選手はあくまでも“美しく”なければならないのだ。幻想と感じてはいても、それをこわしてほしくないという大衆心理。そこに迎合するメディア。しかも迎合をしている限り、部数や広告に悪影響はない。

 困ったことに、こうした幻想は、いびつな愛国心や、報道の大政翼賛化につながりかねない。だから「たかが高校野球、たかがオリンピック」と無視するわけにもいかないのである。(北村肇)