異常が異常でなくなったこの国は、「夏」から逃れられない
2004年9月24日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
不意打ちのように、月が冴え冴えとする季節が訪れた。喧噪と熱気の夏は息苦しくて苦手である。本来は孤高の月すら、変に茫洋とした闇の中で、名も知れない星たちに媚びを売っているかのごとくに見える。凛とした姿が帰ってくると、心底ほっとする。
とはいえ、都心では、まだまだ暑さが続く。異常気象はもはや、異常ではなくなった。秋の真夏日にも驚かない。異常を異常と思わない。実はこれが一番、異常なのだろう。
それでも季節はめぐる。異常気象の遠因が人類の「欲望」にあることを知りつつ、月は黙して秋を告げる。これは偉大な自然だからこそ可能なことだ。翻って、人間社会にはそこまでの「力」はない。いったん異常な社会が生まれ、それが異常ですらなくなったとき、正常な社会はかけらすら残らない。熱病に浮かされた「夏」は終わることなく、それに慣らされた人間は、あるべき冷静さを失い、破滅に向かって突き走る。
夏は、祭りの季節でもある。祭りには“非日常”がともなう。祭りの中に自己を溶解させ(させられ)、忘我の境に飛翔するには「暑さ」が欠かせないからだ。
夏は、へたをすると歪んだ連帯感に陥りやすい季節でもある。もうろうとした中で、汗だくになりながら、太鼓の音にあわせ、一つの方向に進軍させられる。そのさまを、つい思い描く。だから、秋になるとほっとするのである。
戦争は祭りに通じる。非日常の興奮のもと、人間が人間でなくなる。いま、憲法改悪、非核三原則見直し、有事法制……一年中、太鼓の音が響きわたり、社会は「夏」のままという異常事態が、日常になりつつある。知らず知らず、人はそれに慣らされ、人間性を失う。この国はすでに、戦時に入っているのだ。破滅に向かって暴走し始めているのかもしれない。ほっとしている余裕などないのだろう。
悲観論は自分でもあきあきした。だが楽観論を唱えるには、世界がまだ暑すぎる。 (北村肇)