編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

コクド前会長・堤義明氏の凋落に「不変」を求め続けたあわれな権力者の姿を見る。だが、その取り巻きもまた同罪である。

 地球上に在るものはすべて寿命をもつ。だが、「終末」を恐れ苦悶するのは人間だけかもしれない。その恐怖から逃れる術はさまざまにある。不変なものがあると思い込み続けるのも一つ。とりわけ、この世で栄耀栄華を極めた権力者は、むりやり「今」にしがみつく。当然、末路は惨めにしてあわれだ。
 
 コクド会長だった堤義明氏は、西武王国の唯一絶対の権力者として永らく君臨していた。
横暴ぶりはつとに有名だった。かつて西武ライオンズの森祇晶監督に、「もう一年やりたいならどうぞ」という趣旨の発言をしたエピソードは象徴的だろう。あまりの傲慢さに、さすがのライオンズファンも、愕然としたものだ。

 西武系企業の社員から、こんなことを聞かされたことがある。「会長は自家用機で全国の関連会社をまわります。時には、講堂などで社員総出でお出迎えする。ある日、頭の下げ方が悪い社員がいた。会長は突然、履いていたスリッパでその社員の頭をたたいたのです。びっくりしました」。これが事実なら、堤氏の器の小ささに驚く。

 といって、単純に、堤氏の凋落を自業自得と冷笑する気にはならない。トップの愚かさを知りつつ忠告することのなかった無能な部下。そんな連中に囲まれた帝王のあわれさに、同情心すら沸いてくるからだ。

「力」を持てば、多少の「不正」は隠蔽できるかもしれない。しかし、それは永遠に続くわけではない。悪事は必ず露呈する。だが、こんな単純なことも、権力の椅子に座り続けると見えなくなる。だから相談者や知恵袋が必要なのに、「不変」を求める権力亡者は、自らの地位を脅かしそうな人々を次々と切り捨てていく。かくして、お追従だけが取り柄の幹部ばかりが残っていく。

 後継者をつくらない驕った権力者は自滅するばかりか、企業をも危うくする。それを指弾せずに生き残ってきた取り巻きもまた、同罪なのである。(北村肇)

新聞社でも警察でも、自らが所属する腐った組織を敵に回す「正義の味方」。それはカッコイイ。

「他を監視し批判することが職業の新聞人の倫理は、社会の最高水準でなければならない」。新聞社・通信社の労働組合でつくる新聞労連が宣言した「新聞人の良心宣言」(1997年)の一節だ。委員長として宣言つくりに関わったが、何度読んでも「最高水準」という表現に鳥肌が立つ。
 
 当時、労連内で半年以上も議論をした。冒頭の部分に関しては、「かえって権威を振りかざしているように見られないか」という意見もあった。だが最終的には、権力と戦うためには、市民に後ろ指を指されないよう、揺るぎない倫理が必要という結論になった。

 この「良心宣言」は、労働組合を通じて全国の新聞記者に配った。残念ながら浸透しているとは言えないが、常に手元に置いている記者もいると聞く。
 
 新聞記者と同様、「最高水準の」倫理が必要な職業は他にもある。言うまでもなく警察官僚もそうだ。しかし今や、市民の信頼感は大きく損なわれている。30万人近い職員がいれば、時には不祥事もあるだろう。全員に聖人君子を求めるのは酷だ、というのは理解できないわけでもない。

 だが問題なのは、腐敗を隠蔽し、開き直り、極端な場合には「力」をもって抑え込むという警察組織の体質である。一連の裏金疑惑では、こともあろうに、その警察がまさに組織的に悪行に手を染め、なおかつ隠蔽を図るという実態が明らかになった。こんな組織のもとでは、良心を失う職員が続出するのも、むべなるかだ。

 とはいえ、倫理が求められるのは、市民の期待が大きいことの裏返しでもある。新聞人も警察官も、個人としてそのことに思いを寄せたほうがいい。北海道警の問題では、北海道新聞の記者が徹底的に戦った。道警の職員の内部告発もあった。自らが所属する腐った組織を敵に回す「正義の味方」。それはカッコイイ。 (北村肇)

郵政公社の効率化は、人の行なう作業まで機械的にした。そもそも「○」か「×」かというデジタル発想はいただけない。

 確実に届けたい手紙や書類は宅配便を使うことが多くなった。郵便局に任せるのは不安だからだ。遅配、欠配が多いだけではなく、サービスも悪い。枝番号がほんの少し違うだけで、「宛先人不明」として戻ってくる。

 郵政公社になり、お決まりの合理化、効率化が進んだ。多くのことがマニュアル通りの流れ作業に乗っていく。一見、いいように見える。だが実際は過重労働を生み、サービス低下をもたらした。

 効率化は、人の行なう作業も機械的にしようということだ。言い換えればデジタル化である。そこには「○」「×」しかない。たとえば、宛先に書かれた住所に当該の人が住んでいなければ、「×」としてはねてしまう。

 従来はアナログ作業が存在していた。単純に「×」とせず、担当者がいろいろ苦労して、探し当てることがあったのだ。名前さえ正しければ届くこともあった。公園で寝泊まりしているホームレスのおじさんに手紙を出したら、郵便局が渡してくれた、という逸話を読んだこともある。

 これは大変な作業だ。だから、それなりの人数も必要だった。コストがかかる代わりに、私たちは一定のサービスを享受していたのである。何を最優先するのかについては、さまざまな議論があるだろう。だが少なくとも、郵政公社は本当に市民に役立つ存在になっているのか、改めて検証すべきだ。

 なのに小泉内閣は、そんなことはほったらかしにして、郵政民営化に突き進もうとしている。彼の真意がどこにあるにせよ、このまま民営化が実現すれば、その「会社」で、ますます合理化、効率化が求められるのは間違いないだろう。

 時代遅れと言われながら、腕時計はアナログ式を使い続けている。ゼロと一の間の、計り知れない宇宙に惹かれるからだ。人間も社会も二分法に収まるはずがない。(北村肇)

予言する。電通主導の万博は、来年の愛知万博も、将来、開催されるであろう全ての万博も成功しない。

 これまで見に行った万博が二つある。大阪万博とつくば科学博。前者は日本初ということもあり、大学一年のとき物珍しさに出掛けた。特に面白くもなかった。何しろ、米国館やソ連(当時)館などの人気パビリオンは長蛇の列で、二時間待ち、三時間待ちは当たり前。結局、太陽の塔だけ見て帰ってきたようなものだった。

 つくば博とは、新聞記者として取材で一年近くつきあった。初めての科学博だったが、印象に残るのは「水増し騒ぎ」だ。とにかく観客が少なかったため、協会職員らが入場ゲートを行ったり来たりして、計測器にカウントされる数を増やしていたのだ。実は、私の同僚がつかんできた特ダネだった。このスクープがなければ、「水増し」は闇に葬られていたかもしれない。

 あまりの不人気に自殺者も出た。会場内のレストランや売店は閑古鳥。借金で店舗を出したオーナーが命を絶つという悲劇だった。

 パビリオンの目玉は、判で押したように「特殊映像」。といっても、それほどのものでもない。どこが「科学万博」かと、チャチャをいれたくなるような代物ばかり。特に業績の悪い企業のパビリオンは惨たんたるものだった。

 当時も、電通の社員が運営の中心的存在だった。幹部の一人に、同じようなパビリオンでつまらないと言ったら、「ほとんど我が社が企画担当なので、しょうがないですね。一応、チームは分かれているけど、お互いに情報は入りますから。ただ請負額の高いところには優秀なチームを出していますよ」。

 その日、前述の同僚に予言した。「今後、日本で万博が人気を集めることはない」。

 今週号の本誌で取り上げた愛知万博も成功しない。「水増し」でもない限り、予言は的中するはずだ。(北村肇)

マスコミ最大のタブー、「電通」の正体を暴く

 ほとんど日本語を使わない言葉がある。「タブー」もその一つだ。なぜ「禁忌」は死語化したのか。私見だが、字面があまりにもおどろおどろしいからではないか。もともと、避けるべきでないのに避けるのが「禁忌」だから、この言葉には後ろめたさがつきまとう。それが「タブー」となると、どことなく他人事のような趣きがある。深刻味が薄れるのだ。
 
 今週号からスタートした連載「電通の正体」には、「マスコミ最大のタブー」とつけた。メディアにとってのタブーはいろいろある。だれでも知っているのが「皇室」。批判記事を書けないどころか、朝日新聞や毎日新聞をのぞけば、いまだに敬語を使っている。昭和天皇が亡くなったときは、「崩御」などという前時代的な見出しを踊らせた新聞がほとんどだった。

 それでもなお「最大のタブー」が「電通」である、という実態は、あまり世間に知られていない。だからなおさら、質が悪いのである。

 新聞もテレビも雑誌も、広告集稿は広告代理店に頼る部分が多い。テレビや雑誌はもちろん、購読料の値上げができない新聞業界も、いまや広告収入がなければ経営が立ちいかない。となれば、広告業界最大手の「電通」が存在感を増すのは当然だ。

 皇室批判で新聞社がつぶれることはない。だが、「電通」の虎の尾を踏んだら、どうなるかわからない、というのが現実である。

 もちろん、マスコミに働く者の多くは、「電通」批判が「禁忌」であることを苦々しく思っている。だが、広告収入がなければ企業として存在しえない。そこで、報道では一定の配慮をしつつ、自らも「タブー」などと自嘲気味に語ってみせる。この企画では、「電通の正体」とともに、そんなマスコミの実態も描いていく。
 
 幸い、広告収入に頼らない本誌は広告代理店とは何のしがらみもない。いくらでも痛いところを衝ける。ほとんど報道されてこなかった知られざる巨大企業に、可能な限り迫りたい。ジャーナリズムの一つの使命は、「禁忌」に斬り込むこと。これぞ醍醐味だ。(北村肇)