編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

2005年、敗戦60年を迎える日本に主体的に自分を刻み込んでみようか、と考えてみる暗黒の04年暮れ

 自分の中に刻み込まれた時間がある。自分を刻み込んだ場所がある。04年を振り返ってみた。

 イラクの自衛隊派兵、有事法制成立、自衛隊幹部の改憲論……まだまだいくつもある。どの瞬間も、おどろおどろしく、どす黒い。しかも、セピア色の「過去」になるにはまだ、生々しすぎる。私は特に悲観主義者でも楽観主義者でもない。1年という時間に限っても、鈍色(ルビ にびいろ)の時間もあれば、穏やかな暖色に包まれた時間もある。これほどまでに、絶望的な時間ばかりが刻み込まれた年は記憶にない。
 
 一方、刻み込んだ場所は、「日本」としか言いようがない。こちらもまた、初めての体験だ。国外であれ国内であれ、どこか特定の場所に自分を刻み込むのが常だった。新鮮な驚きや感動があったとき、その場所に自分が、そのときの思いのまま固定される。時をおいて再訪したときには、必ず刻み込んだ自分が立ち現れる。

 ところが今年は、「日本」という幻想の場所に、しかもむりやり「刻み込まれた」感覚が色濃く残る。当然、「刻み込まれた時間」とも連動している。他の時間や場所は、ことごとく後景に追いやられた。
 
 来年は敗戦60年。自分という「生命」も、「生命」と関係するあらゆるものも「流れ」。どこかで途切れることも停止することもない。ならば、メモリアルはあまり意味をもたない。特別な「瞬間」は本来、ありえないからだ。しかし、「なにごとにも契機は必要」という発想も人間の知恵。特に、落ち込んだときは、大いに利用価値がある。反転攻勢には“きっかけ”が必要でもある。

 2005年。この際“60年”を契機に、日本に、主体的に自分を刻み込んでみようか。時間はそう残っていないし。(北村肇)