編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

失言、妄言の閣僚、議員を居座らせている責任は、ジャーナリズム性を失った新聞社、テレビ局にある

 机の上に閣僚一覧が張ってある。昨年9月に発足した第2次小泉内閣だ。ふと見ながらつぶやいていた。

「一昔、いや二昔前なら、この閣僚の多く、それから何人かの自民党幹部は辞任していたろうなあ」。

 何しろ、一々、覚えていられないくらい、失言、妄言のオンパレード。どうして居座っていられるのか不思議だ。これはひとえに、マスコミの姿勢に問題がある。私が新聞社の社会部に配属になったのは1981年だが、社会部記者の最大の狙いは、政治家のスキャンダルだった。人権侵害や言論弾圧につながる発言などがあれば、当然のごとく、徹底的にキャンペーンを展開した。

 ここのところ、そうした勢いを新聞やテレビに感じない。逆に、政治家をかばうかのような報道さえ目につく。

 NHKに対する政治家の「圧力」問題でもそうだ。当のNHKは、この件を報道した朝日新聞こそ「加害者」という態度をみせている。安倍晋三氏が「虚報だ」などと朝日新聞に抗議すると、まるで鬼の首をとったかのように「朝日新聞虚偽報道問題」と報じたりもした。

 それだけでも呆然としていたら、放送総局長は会見で「議員に個別の番組を正確に理解してもらう必要がある」とすら語った。これでは「圧力をかけてください」とお願いしているようなものだ。自分たちはジャーナリストではないと認めたに等しい。
 
 また読売新聞や産経新聞は、「女性国際戦犯法廷」自体に問題があるという趣旨の社説を掲載し、安倍氏を後押しした。両紙の「政府・自民党広報紙」ぶりは、もはや行き着くところまできている。

 いまから記者を目指して勉強する学生ではないんだから、NHKの局長や読売、産経の社説子に「権力を監視し、批判するのがジャーナリズム」などと、お説教を垂れても仕方ない。この際、ぜひ他の職業に転職してください、とだけ言っておこう。(北村肇)

妄言を繰り返す安倍晋三氏。この人は一体、何に酔っているのだろう

 久々に風邪をひいた。せき、関節の痛みなどはたまらないが、適度に酔ったときのような、脱力感とともに自分の中にすうっと墜落していく気分は、不思議と心地良かったりする。一種の陶酔感だろうか。考えてみると、自己陶酔は熱病のようなものかもしれない。ときとして日常から遊離するのも人間の知恵か。

 だが自己陶酔が日常化したら、それは別の病いを疑わざるをえない。やたらに「感動」したり、都合が悪くなるたびに「何で私の言うことが理解できないのか」と、ますます居丈高に開き直る、どこぞの総理に不安を感じていたら、上には上がいるものだ。

 あなたは関東軍の末裔かと、その時代錯誤な右翼的言動にあきれることの多かった自民党前幹事長の安倍晋三氏が、またまた妄言を吐いた。戦犯法廷に関するNHKのテレビ番組に圧力をかけたとの報道を否定した上で、「NHKだから公平公正にきちんとやってくださいねと言った」と胸を張って語ったのだ。

 民放と違い、事実上、予算を永田町に握られているNHKにとって、自民党有力者の発言は極めて大きな意味をもつ。仮に「きちんとやってくださいね」という穏やかな表現だったとしても、NHK側が「この番組はまずい」という意味に受け止めるのは必然だろう。安倍氏は「検閲でも強制でもない」と主張するのだろうが、普通、こうしたことを「圧力」というのだ。政治家たる者、口にしてはいけないことなのだ。

 本誌で安倍氏にかかわる霊園疑惑を特集した際、担当記者が事務所を通じてコメントを求めたところ拒否された。信じられない思いだった。新聞記者時代も含め、多くの自民党議員に疑惑やスキャンダルに関する取材をしてきたが、頭から拒否された記憶はない。何らかの回答はあった。特に、大物と目される議員ほど、中身はともかく対応はていねいだった。

 中国や北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に関する勇ましい発言のたびに、安倍氏には「問答無用」といった青年将校の雰囲気が強まっていく。懐の深さが微塵も感じられない。この人は一体、何に酔っているのだろう。それとも悪性のウイルスに心を蝕まれ、「情愛」や「やさしさ」を見失ってしまったのか。(北村肇)

目覚めよマスコミ。2005年、本誌はあえて、「大メディアの正体」を暴く連載を開始する

 スマトラ沖大地震に関する情報で、最も深い部分を刺激されたのが、「インドネシアの内戦被害者が二重の被害に遭っている」というメールだった。反政府の立場だった人が支援を受けられない――。はっきりした証拠はない。だが可能性は否定できない。鋭意、取材を続けるつもりだ。
 
 人類が生んだ唾棄すべき発明の一つに「境界線」がある。国籍、民族、宗教、性別、政治的立場、さらには富める者と貧しい者。あらゆることに境界線を引き、仲間はその中で結束し、外部の人々を“敵”として排除する。

 これは何も「権力」側に限ったことではない。左翼運動、平和運動、労働運動の場面でも同様のことは数多く見られる。目的は変わらないのに、戦略・戦術の違いで敵味方に分かれる。かつて大学闘争華やかなりしころは、互いに「日和見」という境界線を設け、内ゲバに走り、結果として権力を利するという苦い歴史もあった。

 いま世界は、さらに大規模で謀略的な境界線に支配されつつある。「米国流自由と正義」対「テロリスト」はその最たるものだろう。「非イスラーム」対「イスラーム」という構図も作り出されている。

 このような悪しき「二分法」に異を唱え、「命に差はない」を視座に据えるのがジャーナリズムの基本だった。それがどうだろう。昨今のマスコミでは、初めから「正邪」「黒白」を決めつけた報道があまりに多すぎる。たとえばイラク報道。侵略者たる米軍に対するレジスタンスを、平然と「テロ」呼ばわりして恥じない。

 そもそも米国は「勝ち組クラブ」の境界線を引き、その中に入ってこいと、いわゆる「先進国」に秋波を送っている。そこに加わることは「負け組」を差別し排除することにほかならない。政府・与党は明らかにこの誘惑に負けている。だから、いまこそマスコミは、「日本を間違った方向に引っ張るな」と権力批判を展開しなくてはならないのだ。

 目覚めよ大メディア。さもないと真の人権社会は訪れない。本誌はあえて、今週号から「大メディアの正体」を暴く連載を開始する。それにしても、「社会の木鐸」に対し警鐘を鳴らすとは、皮肉な限りだ。(北村肇)

「戦争を実感できる」世代よ、めまぐるしい社会変化に動じるのはやめよう。そして、仮想現実が当たり前の世代に、歴史を語ろう。

 世代論は、そこに何もかもを押しつけるだけの意味はもたない。だが、時代を読み解くカギが豊富に詰まっているのも事実だ。たとえば、もの心ついたとき、テレビが日常化していたかどうかで、世代は大きく変わる。柔らかい頭や心に仮想現実が入り込んでくるのだから、その影響たるや、とても無視はできない。
 
 人はもともと「生命」や「自然」は、手で触り鼻で嗅ぐなど、肉体を駆使して感じ取ってきた。テレビの誕生により、もう一つの「現実」が生まれたことで、「生命」や「自然」のリアリティが薄れた気がしてならない。

 次はテレビゲーム、そしてインターネット、携帯が、息をもつかせぬ速度で世代の変化をもたらす。かつては「10年一昔」といった。20代と話していると「3年後輩になったら、何を考えているかわからない」と真顔でいう。いずれは「1年一昔」になるのだろう。

 これでは将来的には、世代論は文字通り意味をもたなくなるかもしれない。だが現段階では、少なくとも「戦争を実感できる」世代という括りは成立する。この世代にいま問われているのは、テレビゲーム、インターネット、携帯世代に、戦争をどう「現実」として実感させられるかだ。

 もはや「戦争を実感できる」世代は、はるか彼方と慨嘆する人もいる。だが老成化するのはまだまだ早い。2005年、戦後日本はたかだか還暦を迎えたばかりである。

 本誌は1月7日、「敗戦60年 そして これから」と題した増刊号を刊行した。政治、経済、国際、福祉など、各ジャンルごとに、専門家に「日本の60年を振り返り、いまの立ち位置を分析し、未来を展望」してもらったものだ。ぜひ「戦争を実感できない」世代に読んでほしいと思っている。 

 めまぐるしい社会変化に動じるのはやめよう。鬼ごっこやカンけりで育った世代よ。立ち上がろう。そして、仮想現実が当たり前の世代に、歴史を語ろう。    (北村肇)