史実に則り、人道的正義をもって、「神話」の悪利用を弾劾する。それこそが、歴史教育の役割の一つだ
2005年2月25日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
「神話」はおそらく、いかなる国にも民族にもあるのだろう。「死」の耐え難い恐怖と苦悩から逃れるには、「無限」な何かを措定する必要がある。その意味で、神や創造主の逸話は「生命」の無限性の担保につながる。「神話」はまた、時に民族の優越性を生み出す。「選ばれた」民としての一体感を演出するのだ。
日本で教育を受けた人なら、大半が、イザナギやアマテラスの「神話」を知っているだろう。また、それが現実に起こった「歴史」とは異なることや、あたかも史実であるかのごとく権力に利用された「歴史」についても、教わったはずだ。だがいま、封印されたはずの禁じ手が蘇えり、暴れ回っている。
「つくる会」の歴史教科書は、「歴史」と「神話」を意識的に混同させているようにみえる。具体的なことは本誌の特集を参照してほしいが、およそ特異な教科書としか言いようがない。さらに、「つくる会」関係者は、従来の歴史教育を自虐史観と斬って捨て、南京大虐殺も従軍慰安婦も「史実」ではないとまで言い切る。4年前、この教科書がほとんど採択されることのなかったのは当然だ。だが今年は「10%の採択を目指す」という。
右傾化の時代とはいえ、「つくる会」教科書の採択が相次ぐような事態は起きえないだろう。しかし、問題は“余波”にある。知り合いの教師にこんな話しを聞いた。「現場では、『つくる会』教科書を拒否すると、対極にある『良心的』教科書も採択しないという傾向がある。そうなると、結果として『若干、右寄り』の教科書が選ばれてしまう」。なんのことはない、「つくる会」教科書の採択はなくとも、全体に教科書は“右傾化”し、良心的教科書が採択されにくくなっているというのだ。
歴史は童話でも小説でもない。「優秀な民族である日本人が、西欧に侵略されていたアジア各国を解放してあげた」という「神話」を、史実に則り、人道的正義をもって弾劾する。それこそが、歴史教育の役割の一つだ。
教科書がまともでなければ、教師は自らの「意志」と「見識」で授業をするしかない。そうした実践が、結果的に良心的教科書採択への道を開くはずである。(北村肇)