今年も卒業式の季節になった。自立もせず、自信のない校長らに「愛国」を強要する資格などない。
2005年3月25日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
若いころのように、バーゲンで買った安物のワイシャツを着こなす勇気がなくなってきた。自信がないからだ。「若さ」はそれだけで輝きがある。だから、身にまとったものも自然に映える。50歳を過ぎたら、そうはいかない。魅力が薄れるほど、せっせと着飾ったり化粧に精を出す。人の世の常だろう。
「日の丸」だ「君が代」だと叫ぶ、自称「愛国者」の発言に魅力を感じることはない。こちらも、自信のなさがもたらすのではないか。そもそも「日本」に輝きがあれば、そこに住む者はおのずと誇りを感じる。一体感も生じる。そうした実態がないから、「国旗・国歌」で帰属意識を強要することになる。
それを知ってか知らずか、教師や生徒に「君が代」斉唱を命じる校長は、哀れとしか言いようがない。自信ばかりか、「自分」もない。いや、自分を殺しているのかもしれない。
今年も卒業式の季節になった。本誌で特集したように、都立高校では「強制」と「抵抗」が、さまざまな形で激突した。校長、教頭は必死に歌わせようとし、一部の教師や生徒は決然と背く。
どちらが輝いているか、言葉にするまでもない。「官吏」として職務を果たすことにのみ専念する校長、自信をもって自らの信念・信条を押し通す教師・生徒。あまりにもはっきりとした落差だ。
無論、校長に「君が代」斉唱、「日の丸」掲揚を命じる教育委員、知事、議員らはもっと魅力に欠ける。国旗・国歌は国のシンボルである。国に愛着を感じたとき、自然にシンボルは価値あるものになる。だが、彼ら・彼女らは、愛着を押し付けるために、「君が代」「日の丸」を利用しているにすぎないのではないか。これでは、独裁国家となんら変わらない。
自立し、自信のある人間にとって、シンボルはさしたる意味を持たない。制服や高級な衣服以前に、内面を磨くからだ。日本という国家も、内実が伴ったとき、そこに住む者の心に愛着が生まれるのだろう。
自立もせず、自信のない人間に、「愛国」を語る資格などないのだ。(北村肇)