編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

今年も卒業式の季節になった。自立もせず、自信のない校長らに「愛国」を強要する資格などない。

 若いころのように、バーゲンで買った安物のワイシャツを着こなす勇気がなくなってきた。自信がないからだ。「若さ」はそれだけで輝きがある。だから、身にまとったものも自然に映える。50歳を過ぎたら、そうはいかない。魅力が薄れるほど、せっせと着飾ったり化粧に精を出す。人の世の常だろう。

「日の丸」だ「君が代」だと叫ぶ、自称「愛国者」の発言に魅力を感じることはない。こちらも、自信のなさがもたらすのではないか。そもそも「日本」に輝きがあれば、そこに住む者はおのずと誇りを感じる。一体感も生じる。そうした実態がないから、「国旗・国歌」で帰属意識を強要することになる。

 それを知ってか知らずか、教師や生徒に「君が代」斉唱を命じる校長は、哀れとしか言いようがない。自信ばかりか、「自分」もない。いや、自分を殺しているのかもしれない。

 今年も卒業式の季節になった。本誌で特集したように、都立高校では「強制」と「抵抗」が、さまざまな形で激突した。校長、教頭は必死に歌わせようとし、一部の教師や生徒は決然と背く。

 どちらが輝いているか、言葉にするまでもない。「官吏」として職務を果たすことにのみ専念する校長、自信をもって自らの信念・信条を押し通す教師・生徒。あまりにもはっきりとした落差だ。

 無論、校長に「君が代」斉唱、「日の丸」掲揚を命じる教育委員、知事、議員らはもっと魅力に欠ける。国旗・国歌は国のシンボルである。国に愛着を感じたとき、自然にシンボルは価値あるものになる。だが、彼ら・彼女らは、愛着を押し付けるために、「君が代」「日の丸」を利用しているにすぎないのではないか。これでは、独裁国家となんら変わらない。
 
 自立し、自信のある人間にとって、シンボルはさしたる意味を持たない。制服や高級な衣服以前に、内面を磨くからだ。日本という国家も、内実が伴ったとき、そこに住む者の心に愛着が生まれるのだろう。

 自立もせず、自信のない人間に、「愛国」を語る資格などないのだ。(北村肇)

大クライアント「トヨタ」の顔色をうかがって愛知万博批判をしないメディアは、自ら「信頼感」を失わせている

 トヨタ自動車の広告を止められたら、その日に倒産の危機に陥る新聞社もあるだろう。社によっては収入の半分を広告に頼る現状では、大手クライアントがメディアの生殺与奪の権を持っている、といっても過言ではない。

「電通」キャンペーンでも詳述してきたが、愛知万博批判の記事が滅多にないのも、実質「トヨタ博」と揶揄されるほど、トヨタの影響力が強いからだ。広告とのバーターで協賛金を出した新聞社もある。「だから、やむをえない」というのかもしれないが、こうした姿勢が新聞離れを加速しているのは、紛れもない事実だ。

 マスコミとはいっても、そこは企業。広告主をまったく無視しては、経営が成り立たないのは理解できる。万博に関しても、それが「環境破壊博」であれ、トヨタの広告や政府広報を一切拒否しろ、とまで言うつもりはない。また、入場券の発売状況やパビリオンの内容などを報道するのも、一応は国家的イベントなのだから、メディアとしては当然のことだろう。
 
 しかし、トヨタの顔色をうかがって批判を書かないとなると、問題はまったく別である。本誌は今週号をはじめ、何度かにわたって愛知万博の負の面を明らかにしてきた。記者を数多く抱える新聞社が、これらの点について実態を知らないとは考えにくい。あえて触れていないのだろう。トヨタや電通が具体的に、「このことは書かないで欲しい」と要望してくることはあまりないので、基本的には「自主規制」と思われる。

 ある電通の若手社員がこんなことを話していた。「しばらく前は、記事のクレームを新聞社の広告局にもっていくと、『編集局がウンと言うわけない』と及び腰だった。最近は、『大丈夫』ということが増えた。こちらとしてはありがたいが、クライアントの要求があまりエスカレートするのも困る。新聞は、少し強面くらいのほうがいいんじゃないかな」。 

 目先の利益を求めるばかりに、メディアにとって最も重要な「信頼性」を失っている。新聞社は、なぜこんな単純なことに気づかないのか。「広告はください。でも書くべきことは書きます!」。たまには啖呵を切ったらどうか。(北村肇)

ライブドア、フジテレビの攻防は、とりあえずフジが勝つだろう。理由は、権力をもった「大人」のほうが質悪だからだ

「命より健康が大事」そうな人はたくさんいる。健康診断の数値に一喜一憂し、万歩計の数字を確認しないと、おちおち眠れない。「生きている喜び」を感じるとき、それこそが健康な状態のはずなのに、数字的裏付けのほうが重要かのよう。中には、ジョギング時間を少しずつ増やすことに「命をかけている」人もいる。
 
 ゲーム感覚なのかなと思う。「健康」と勝負して、勝った負けたのような。ライブドアの堀江貴文社長をみていて、同様のことを感じた。金もうけも企業買収も、一つのゲーム。目的は「勝つ」ことにあり、そこから先に、目をみはるほどのビジョンがあるとも思えない。だから、臆せず、どんな手でも使う。
 
 ファミコン世代は、中高年に比べゲームに慣れている。勝つために何をしたらいいのか、そのあたりの感性も優れている。どんな武器が相手に有効か、この場面で必要な戦法は――日々、三国志の登場人物並みに頭を巡らせているのだから当然だろう。

 瞬間の判断力、反射神経も凄い。たとえば中学生や高校生とどんなゲームをしても、まずは勝てない。かつてだったら、相撲や駆け足はもちろん、トランプでもカルタでも、大体は、大人が勝ったものだ。

 マネーゲームの勝者はこれからどんどん、若返るだろう。「金もうけ」というゲームに若者がどっぷり浸かれば、大人はなかなか太刀打ちできない。 

 だが、ライブドア対フジテレビの攻防について、私は常に「フジが勝つ」と言い続けてきた。一部の「大人」には、違う力があるからだ。築き上げた権力・権威を守ろうという貪欲さである。これは強い。特に権力者クラブが一致団結したときには、たとえようのない底力を発揮する。

 むろん、フジ側を応援する気はまったくない。権力者には、自らの力を誰のために使うのか、目的意識のはっきりしない連中が多い。組織の中で、ライバルを蹴落として出世街道を歩む、これもまた古典的なゲーム。そんな勝者や、赤絨毯を踏むことが最大の目的のような議員に、堀江氏を批判する資格はない。どちらが質悪か、はっきりしている。  (北村肇)

「安全な学校」をつくる妙案はない。ただ、警察に任せればすむという、単純な発想では解決できようもない

 子どもたちの喚声が聞こえる。足を止め、何気なく校庭を見やった。部活動なのか、数人の小学生が準備体操らしきことをしている。特に変わった光景ではないのに、なんとなく違和感があった。ぴたりと閉められた校門のせいか。いや、もともと土曜日はそうだったのかもしれない。問題は「私」にあるのだろう。相次ぐ事件、過剰とも思える防衛策、そうしたニュースに悶々としていた。だから、それこそ過敏に反応したのだ。

 先日、沖縄に行った学者に「どの家も開けっぱなしの地区がある」と聞いた。同席していた若い編集者が、文字通り、目を丸くしていた。下町育ちの私は、カギのない生活の体験者でもある。学校から帰ると、近所のおばさんが上がり込んで、勝手にお茶を飲んでいるようなこともしばしばあった。プライバシーもなにもあったものではない。そのかわり、空き巣にあうことも滅多になかった。といって、「無防備のほうがかえって安全」と言い切る気はない。

 ここは、「軍隊」が必要かどうかの議論とは異なる。戦争は政治の一形態である。従って、本来、外交の肝は「戦争を起こさない」ことにある。軍隊をもたず、戦争をも避けるのが最善の外交なのだ。「無防備」が極めて強力な“武器”になることも大いにありうる。

 しかし、個人的犯罪はそうはいかない。相手が見えないことがほとんどだし、行きずりの犯行もある。事前の「外交努力」で抑止できるものではないのだ。

 では、「安全な学校」をつくるにはどうしたらいいのか。さんざん議論されてきたが、妙案はない。ただ、警察に任せればすむ、という単純な発想で解決できないのは確かだ。地域ぐるみの取り組みも、一歩間違えると、かつての「五人組」のようになり、息苦しい監視社会を生みだしかねない。迂遠なようだが、すべての市民・国民が自らの問題として、社会のありようそのものを問い直すしかないのかもしれない。

 3月から、石坂啓さんに編集委員に加わっていただいた。石坂さんは教育問題にも強い関心をもっておられる。本誌もこれまで以上に、あらゆる角度から「教育」を取り上げ、読者の方々とともに考えていきたい。(北村肇)