編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「安全な学校」をつくる妙案はない。ただ、警察に任せればすむという、単純な発想では解決できようもない

 子どもたちの喚声が聞こえる。足を止め、何気なく校庭を見やった。部活動なのか、数人の小学生が準備体操らしきことをしている。特に変わった光景ではないのに、なんとなく違和感があった。ぴたりと閉められた校門のせいか。いや、もともと土曜日はそうだったのかもしれない。問題は「私」にあるのだろう。相次ぐ事件、過剰とも思える防衛策、そうしたニュースに悶々としていた。だから、それこそ過敏に反応したのだ。

 先日、沖縄に行った学者に「どの家も開けっぱなしの地区がある」と聞いた。同席していた若い編集者が、文字通り、目を丸くしていた。下町育ちの私は、カギのない生活の体験者でもある。学校から帰ると、近所のおばさんが上がり込んで、勝手にお茶を飲んでいるようなこともしばしばあった。プライバシーもなにもあったものではない。そのかわり、空き巣にあうことも滅多になかった。といって、「無防備のほうがかえって安全」と言い切る気はない。

 ここは、「軍隊」が必要かどうかの議論とは異なる。戦争は政治の一形態である。従って、本来、外交の肝は「戦争を起こさない」ことにある。軍隊をもたず、戦争をも避けるのが最善の外交なのだ。「無防備」が極めて強力な“武器”になることも大いにありうる。

 しかし、個人的犯罪はそうはいかない。相手が見えないことがほとんどだし、行きずりの犯行もある。事前の「外交努力」で抑止できるものではないのだ。

 では、「安全な学校」をつくるにはどうしたらいいのか。さんざん議論されてきたが、妙案はない。ただ、警察に任せればすむ、という単純な発想で解決できないのは確かだ。地域ぐるみの取り組みも、一歩間違えると、かつての「五人組」のようになり、息苦しい監視社会を生みだしかねない。迂遠なようだが、すべての市民・国民が自らの問題として、社会のありようそのものを問い直すしかないのかもしれない。

 3月から、石坂啓さんに編集委員に加わっていただいた。石坂さんは教育問題にも強い関心をもっておられる。本誌もこれまで以上に、あらゆる角度から「教育」を取り上げ、読者の方々とともに考えていきたい。(北村肇)