「笑い」や「シャレ」も交え、憲法改正などとぬかす連中をたたきのめそう。
2005年4月29日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
小さいころ、よく寄席に連れていかれた。落語では志ん生、色物では都々逸の三亀松が気に入った。話の中身などとんとわからない。何しろ、世の中のこと、ましてや「世の中(男女関係)のこと」など別世界の年ごろ。だが、なんとなく江戸っ子の香りを感じ取った。「人に指図されるのが大っきらい、強いヤツを揶揄するのが大好き、怒った相手はシャレでたたきのめす」ってな感じ。われながら、ませたガキだ。
「まるごと憲法特集」に登場願った小朝、正蔵師匠。お二人とも、「平和」とか「憲法」とか、これといって口にするわけではない。だが、「お上に、何かと押しつけられるのは嫌だねえ」「弱い者いじめはみっともないよ」という、江戸っ子気質をそこはかとなく感じる。元ませガキは、「粋だねえ、さすが」と感じ入る。
落語はそもそも「反権力」の芸なのだろう。お上に直訴したのでは、弾圧されてしまう。それでは元も子もない。「笑い」の中に庶民の苦しみや怒りを包んでおけば、役人にはわからない。そして、苦しみや怒りはじわじわと庶民に共有され、ある時、爆発して権力を追い込む。
役人の文章や裁判の判決文などには、一点の「笑い」も「シャレ」もない。それはそれで仕方ないにしても、「シャレ」のわかる役人に出合った経験もほとんどない。どんなに学校の成績がよくても、頭の固い人は利口とは言えない。庶民感覚をわからずに、行政や司法をするから、「血も涙もない」などど揶揄されるのだ。
遺憾ながら、戦後の民主運動にも同様のことが言える。デモやストはあっても、権力を追いつめる「笑い」や「シャレ」がやや欠けていた。息抜きのない運動は結果、庶民の支持を失うこともある。「もっとまじめにやれ」と叫んだ瞬間、それはある意味で、権力者と同じ地平に立ってしまう。崩すべきでない「核」さえ愚直に守り通せば、あとは自由で構わない。今週号からスタートした石坂啓さんのマンガも、そんなことを教えてくれる。
戦争国家は、庶民から「笑い」を取り上げる。「へらへらするな」という権力者の怒号には、「シャレ」の根底に潜む体制批判への恐れがにじむ。どこまでも「強いもの」として市民に君臨したい。ちゃかされるのが怖くて仕方ない。要は、小心者ってことなのだ。エッ、改憲反対なら逮捕するぞだと。てやんでー。(北村肇)