編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「笑い」や「シャレ」も交え、憲法改正などとぬかす連中をたたきのめそう。

 小さいころ、よく寄席に連れていかれた。落語では志ん生、色物では都々逸の三亀松が気に入った。話の中身などとんとわからない。何しろ、世の中のこと、ましてや「世の中(男女関係)のこと」など別世界の年ごろ。だが、なんとなく江戸っ子の香りを感じ取った。「人に指図されるのが大っきらい、強いヤツを揶揄するのが大好き、怒った相手はシャレでたたきのめす」ってな感じ。われながら、ませたガキだ。

「まるごと憲法特集」に登場願った小朝、正蔵師匠。お二人とも、「平和」とか「憲法」とか、これといって口にするわけではない。だが、「お上に、何かと押しつけられるのは嫌だねえ」「弱い者いじめはみっともないよ」という、江戸っ子気質をそこはかとなく感じる。元ませガキは、「粋だねえ、さすが」と感じ入る。

 落語はそもそも「反権力」の芸なのだろう。お上に直訴したのでは、弾圧されてしまう。それでは元も子もない。「笑い」の中に庶民の苦しみや怒りを包んでおけば、役人にはわからない。そして、苦しみや怒りはじわじわと庶民に共有され、ある時、爆発して権力を追い込む。

 役人の文章や裁判の判決文などには、一点の「笑い」も「シャレ」もない。それはそれで仕方ないにしても、「シャレ」のわかる役人に出合った経験もほとんどない。どんなに学校の成績がよくても、頭の固い人は利口とは言えない。庶民感覚をわからずに、行政や司法をするから、「血も涙もない」などど揶揄されるのだ。 

 遺憾ながら、戦後の民主運動にも同様のことが言える。デモやストはあっても、権力を追いつめる「笑い」や「シャレ」がやや欠けていた。息抜きのない運動は結果、庶民の支持を失うこともある。「もっとまじめにやれ」と叫んだ瞬間、それはある意味で、権力者と同じ地平に立ってしまう。崩すべきでない「核」さえ愚直に守り通せば、あとは自由で構わない。今週号からスタートした石坂啓さんのマンガも、そんなことを教えてくれる。

 戦争国家は、庶民から「笑い」を取り上げる。「へらへらするな」という権力者の怒号には、「シャレ」の根底に潜む体制批判への恐れがにじむ。どこまでも「強いもの」として市民に君臨したい。ちゃかされるのが怖くて仕方ない。要は、小心者ってことなのだ。エッ、改憲反対なら逮捕するぞだと。てやんでー。(北村肇)

「愛国無罪」は、戦争への道に突き進みかねない。歴史の教訓、それは「愛国」から「愛民」への転換ではなかったか。

 歴史的物言いに倣えば、「愛国主義」という妖怪が徘徊している。韓国での「竹島騒動」が続く中、今度は中国で起きた反日のうねりは収まることをしらずに拡大、大使館が襲撃されるなどの事態に発展した。日本は謝罪を求めるが、中国は歴史認識問題を盾に突っぱねる。国益を考えれば、両政府とも、経済的つながりを根底から損壊するような事態は何としても避けたいはずだ。だが国民を覆い始めた「愛国主義」の嵐は、弱腰を許さない。

 本誌ルポが伝えたように、中国のデモが政府主導とは思えない。だが、本格的な取り締まりに乗り出すともみえない。むしろ、ガス抜きを図っているような印象がある。新華社が、町村外相の「深い反省」という言葉を、強引に「謝罪」と意訳して報じたのも、その表れだろう。日本政府は日本政府で、反日デモによる被害に対する謝罪を求めるのみで、歴史認識について95年の村山首相談話を超える声明を出す気はさらさらないようだ。

 考えてみれば、いずれも儒教の国であった。中国は共産主義国家とはいえ、「修身斉家治国平天下」の思想は連綿として続く。自分を鍛え、家をまとめ国家を治める。根底にあるのは、自国の文化を何よりも大切にする「愛国主義」だ。

 日本は先の大戦で、その中国を踏みにじった。しかも未だに、小泉首相の靖国参拝や教科書問題などが、中国の愛国心を深いところで傷付けている。ちょっとしたきっかけがあれば、いつでも火を噴く状態のところに、韓国での反日運動、日本の国連常任理事国入り問題が刺激を与えた。

 一方、日本では、憲法や教育基本法を改悪して、「家を守り、国を愛する」国民をつくろうという動きが急だ。教科書の”右傾化”もそれに即応した流れである。「愛国」は、「強国」を求める意識を生みかねない。敗戦国という認識を嫌い、「アジアの解放」を唱える自虐史観排斥論者にとって、中国や韓国は「日本に感謝すべき」立場に変えさせられてしまう。反日デモの深層にある「被害意識」そのものを切り捨ててしまえば、そこにあるのは、歴史の反省を忘れ、国益追求に汲々とする「強国」の横暴な態度だけだ。

「愛国無罪」は、一歩、間違えれば戦争への道に突き進みかねない。先の大戦が教えたもの。それは「愛国」から「愛民」への転換ではなかったか。(北村肇)

米軍再編がもたらす、新たな世界侵略への底なしの不安

 ウメの散り際は、絢爛たるサクラがその老いを隠す。だが、サクラはすべてをさらしたまま季節を終え、後には、若々しい新芽が初夏を告げる。潔しとサクラがもてはやされるのは、散り際の妙にあるのか。で、考える。「お国のために命を失った」人々にだぶらされたサクラの心境はいかに。

 かの人たちは、散ったのではない。国家によって散らされたのだ。そこには、あきらめきれない無数の無念が渦巻いていたはずである。が、しかし、その命は、私たちに「平和」という新緑を残してくれた。

 そして60年。いま、「敵国」米国と日本は、巨大な軍事同盟を目指す。米軍再編という文字面からは人ごとのような戦略に、日本は根こそぎ巻き込まれ、今度は、緑そのものが破壊されようとしている。

 そもそも、米国の理解する日米安保条約は、「極東戦略のために日本を基地化する」ことに集約される。「日本を守る」はお題目にすぎない。すべては自国の利益のためなのだ。

 それを知りつつ、市民・国民をあざむいてきた政府・自民党は、「何が悪い」と開き直っているようにみえる。だが本誌今週号で特集したように、米軍再編により、自衛隊はほぼ完全に米軍の指揮下にはいる。「悪い」に決まっているではないか。

 自民党は憲法を改悪し、自衛隊を自衛軍にしようともくろむ。しかし米軍再編が進めば、「自衛軍」ではなく、「米軍の日本分隊」にすぎなくなるのだ。「押しつけ憲法に反対」を唱える政党が、なぜ日本を米国の属国にしようとするのか、この点でも、およそ理解に苦しむ。

 憲法が安楽死させられていることは、先週号で触れた。このまま蘇生しなければ、かつて日本は一国でアジアを侵略したが、21世紀は、米国の属国として世界侵略に荷担することになるだろう。米軍再編は、そういう視点からとらえなければならない。

 満開のサクラを仰ぎ、散らされた命に思いを馳せる日々、春に浮かれてはいられない。(北村肇)

本誌は改めて宣言する。「憲法、教育基本法改悪は許さない」。

 憲法関連の執筆を頼んでいるライターから、こんなメールが届いた。「何度、取材相手から『拳法ですか?』と聞かれたことか」。空気のような存在といわれる憲法。実際、日常、意識している人は、そうはいないだろう。意識しなくても、最低限の「人権」や「自由」は、なんとか守られてきたのも事実だ。

 だが、ここにきて、異様な事態が生まれつつある。ビラを配っただけで逮捕されたり、「君が代」を歌わなかっただけで教壇を追われたり。基本的人権や良心の自由が、あからさまに蹂躙されている。特高警察は、歴史上たまたま現れた異物ではなく、いつでも蘇るのだという恐怖感に襲われる。

 個人情報保護法や人権擁護法など、報道規制の法も施行され、あるいは準備されている。しかも、メディアの危機感は薄い。報道が権力に取り込まれたらどうなるのか。ほんの60年前の教訓はどこにいったのだろう。

 かように、憲法の”安楽死”は九条に限ったことではない。軍事力強化、愛国心教育、報道規制……。なし崩しに、しかし計画的に、日本は「いつ戦争してもおかしくない」国になっている。

 さらに加速する「改悪」の動き。根底にあるのは、国家と個人の”力関係”を逆転させようという発想にほかならない。本来、個人の権利を守るための憲法を、市民・国民の義務規定にしたいというのだから、何をか言わんやだ。

 市民・国民は国家の奴隷ではない。主権者である。こんな大原則が理解できない国会議員は、改憲を言う前に、まずもって、きちんと憲法を読み解いてほしい。

 11年前、きな臭さに耐えられなくなった人々の手で、『週刊金曜日』は誕生した。その後、一貫して、基本的人権の擁護、平和主義、権力の監視などを編集方針に掲げてきた。本誌は、ここに改めて宣言する。「憲法、教育基本法改悪は許さない」。

 向こう1年間、さまざまなキャンペーンを展開するつもりだ。憲法を守るだけでなく、憲法を安楽死から救うため、読者のみなさんとともに進んでいきたい。(北村肇)

なぜ、マスコミは地検や公安警察の批判キャンペーンができないのか。

 検察批判キャンペーンを紙面化した大手新聞はない。そう断言してもいいだろう。実は『毎日新聞』で、企画の前段階までいったことがある。結局はつぶれた。東京地検から圧力がかかったわけではない。地検担当の記者から、「取材ができなくなる」と悲鳴があがったからだ。10年ほど前のことである。いまも事情は、そう変わらないだろう。

 地検がらみの記事では、「模様」という表現が多用される。「逮捕の方針を固めた模様だ」という具合だ。「方針」を「固めた」、しかも「模様」だが、決して憶測記事ではない。確信はあっても断定できないのである。地検は、捜査状況が事前に漏れるのを何よりも嫌う。そのような記事が載れば、当該の社は「出入り禁止」となり、記者会見にも参加できなくなることがある。

 今年初め、東京地検特捜部長が、「マスコミはやくざ者より始末におえない」と公言した文書を記者に配り、問題になった。「正直なところ、マスコミの取材と報道は捜査にとって有害無益です」としたうえで、「マスコミが無闇に事件関係者に取材したり、特捜部が誰を呼びだして取り調べたとか、捜索をしたとかの捜査状況の報道をしたり、逮捕や捜索の強制捜査のいわゆる前打ち報道をしたりすることによって……捜査を妨害し……犯罪者及び犯罪組織を支援している以外の何物でもありません」という、激烈な内容だ。

 この特捜部長に限らず、地検捜査員は一様に、「事前報道」を苦々しく思っている。だが、地検担当記者は「特ダネ」を書かなくてはならない。当然、そこには緊張関係が生まれる。とはいえ、力関係はどうみても地検のほうが上だ。そして、こうした状況のもと、地検批判の記事を書いたらどうなるか。「事実上、取材できなくなり、読者に情報提供ができない」が、記者の素直な感想だろう。そしてこれはそのまま、公安警察にもあてはまるのだ。

 社会部に長く在籍し、警察担当もしてきた身としては、担当記者の苦悩はよくわかる。しかし支持はできない。他社に先駆けて、「明日逮捕」などの記事を書くことにどれほどの意味があるのか。そんなことより、捜査当局を批判できない担当記者の存在とは一体、何なのかと自問すべきだ。書くべきは、地検や警察が権力を笠に着て間違った捜査をしたとき、あるいはすべき捜査をしなかったときだろう。先の苦悩は、企業記者の苦悩にすぎない。権力批判を仕事とする、真のジャーナリストの苦悩ではない。(北村肇)