「愛国無罪」は、戦争への道に突き進みかねない。歴史の教訓、それは「愛国」から「愛民」への転換ではなかったか。
2005年4月22日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
歴史的物言いに倣えば、「愛国主義」という妖怪が徘徊している。韓国での「竹島騒動」が続く中、今度は中国で起きた反日のうねりは収まることをしらずに拡大、大使館が襲撃されるなどの事態に発展した。日本は謝罪を求めるが、中国は歴史認識問題を盾に突っぱねる。国益を考えれば、両政府とも、経済的つながりを根底から損壊するような事態は何としても避けたいはずだ。だが国民を覆い始めた「愛国主義」の嵐は、弱腰を許さない。
本誌ルポが伝えたように、中国のデモが政府主導とは思えない。だが、本格的な取り締まりに乗り出すともみえない。むしろ、ガス抜きを図っているような印象がある。新華社が、町村外相の「深い反省」という言葉を、強引に「謝罪」と意訳して報じたのも、その表れだろう。日本政府は日本政府で、反日デモによる被害に対する謝罪を求めるのみで、歴史認識について95年の村山首相談話を超える声明を出す気はさらさらないようだ。
考えてみれば、いずれも儒教の国であった。中国は共産主義国家とはいえ、「修身斉家治国平天下」の思想は連綿として続く。自分を鍛え、家をまとめ国家を治める。根底にあるのは、自国の文化を何よりも大切にする「愛国主義」だ。
日本は先の大戦で、その中国を踏みにじった。しかも未だに、小泉首相の靖国参拝や教科書問題などが、中国の愛国心を深いところで傷付けている。ちょっとしたきっかけがあれば、いつでも火を噴く状態のところに、韓国での反日運動、日本の国連常任理事国入り問題が刺激を与えた。
一方、日本では、憲法や教育基本法を改悪して、「家を守り、国を愛する」国民をつくろうという動きが急だ。教科書の”右傾化”もそれに即応した流れである。「愛国」は、「強国」を求める意識を生みかねない。敗戦国という認識を嫌い、「アジアの解放」を唱える自虐史観排斥論者にとって、中国や韓国は「日本に感謝すべき」立場に変えさせられてしまう。反日デモの深層にある「被害意識」そのものを切り捨ててしまえば、そこにあるのは、歴史の反省を忘れ、国益追求に汲々とする「強国」の横暴な態度だけだ。
「愛国無罪」は、一歩、間違えれば戦争への道に突き進みかねない。先の大戦が教えたもの。それは「愛国」から「愛民」への転換ではなかったか。(北村肇)