編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

戦後処理問題の解決は、国家を超えた「人間の心」で歴史を読み解くことから始まる

 人間の遺伝子は約33,000、植物でも約25,000の遺伝子をもつ種があるという。これを見る限り、人間と植物を隔てる壁はそれほど大きくない。まして人間同士にいかほどの“差”があるのか。肌の色、目の色、髪の色。そんなものは植物との“差”を考えたら、およそとるにたらないものだ。

 本来、人間には「差別は正しくない」と自然に考える資質がある。なぜなら人は幸せを求める。そして善行は幸せにつながる。だから「差別をしない」という善行は当たり前のこと。

 戦後のごたごたがまだ収まらない時代、小学校にはよく転校生が来た。在日外国人の子どもも多かった。「言葉がおかしい」「肌が黒い」と、いじめに走る子もいた。逆に、そんないじめっ子をいさめる子もいた。高校生になり、いじめた側の友人が漏らした言葉が耳に残る。「差別的な言葉でちゃかして泣かすのはおもしろかった。でも、なんだか後で嫌な気分になって。それがどんな心の動きだとか、理解できたのは最近になってだけど」。その後は、二人して学びたての「哲学」を持ち出し、青臭い幸福論などをたたかわせた。
 
 お互いに相手の立場を思いやることが、人間関係をつくっていくうえにどれほど重要か、社会に出れば誰でもわかる。それが自分にとって幸福であることも。ではなぜ差別が横行するのか。大きな理由の一つは、「国家」に象徴されるような、「組織」という幻想にとらわれてしまうことだろう。

 善行が当然とはいえ、時に悪行の誘惑に負けるのが人間の宿命。自分を優位な立場に置くための「差別」もその一つだ。だが幸福を求める個々は、いじめっ子が反省するように、いつかその愚かさに気づく。これに対し、人間の悪行の集積によって生まれた「組織」は、改心のないまま存続し続ける。人間がつくった「国家」が人間を支配する所以だ。

 ごく単純に考えて、「戦争が大好き」という人間がそうたくさんいるとは思えない。しかし「戦争をしたい」国家はある。国家の意志によって国民が戦争に駆り立てられた歴史は枚挙にいとまがない。そして、その国家をつくったのもまた国民なのだ。

 戦後処理問題の解決は、政治レベルだけでは難しい。政府はもちろん、国民一人ひとりが、国家を超えた「人間の心」で歴史を読み解くことから始めなくてはならない。
(北村肇)

石原慎太郎氏は政治家としても、知事としても、「親分」としても失格だ

 実は、石原慎太郎氏を「潔い」と評価したことがある。新聞記者時代、衆議院議員だった石原氏のスキャンダルを追っていた。詳細は忘れたが、金銭に絡む問題だった。ある日、取材チームのキャップだった私と、中心になって動いていた記者に、石原氏の関係者から「二人で国会の事務所に来てほしい」という連絡があった。議員会館の部屋にいくと、その場で同氏はあっさりと疑惑を認め、「有権者に申し訳ない」と謝罪した。記事は特ダネとして翌日の朝刊に掲載した。

 国会議員はどんなに追いつめられても逃げ回るのが常。社会部記者としての体験上、こんなにあっさりと非を認めたのは石原氏だけだった。もちろん「何か裏があるな」とは思った。考えられるのは、もっと大きな疑惑を隠すために一部を認めてしまうという戦略だ。だが、その時の石原氏の態度にはけれんみがなく、ついつい評価してしまった。

 その後、別件で石原氏の自宅に「夜回り」にいったときのこと。ある事件の担当議員として海外に出かけ、帰国したその日だったので、玄関払いを覚悟していた。だが意外にも目をしょぼしょぼさせながらも、ていねいに応じてくれた。ほとんどの自民党議員は、「社会部」の名刺を見ただけでも、露骨に嫌な顔をする。「保守系議員には珍しい」と、ここでも高い点数をつけてしまった。時を経るにつれ、なんと人を見る目がないのだろうと、恥じ入ったのは言うまでもない。
 
 石原氏のアジア蔑視、排外主義的ナショナリズムの発言には、心底うんざりする。「日の丸・君が代」押しつけ教育に対しては、怒りのもって行き場もない。さらに、今回の副知事スキャンダル問題の対応には、別の意味で愕然とした。件(くだん)の副知事は側近中の側近。だからこそ石原氏も全面的に信頼し、仕事を任せていたのだろう。そのこと自体、大いに問題だが、仮にそこまで一心同体なら、副知事とともに知事職を辞すのが、「親分」の責任というものだろう。これは政治姿勢以前の、人格とか品性の問題だ。

 都民の多くは、石原氏のみせかけの「歯切れのよさ」に幻惑されてきた。「料亭政治」「腹芸」「談合」……旧来の永田町政治にうんざりした有権者が、既存の体制に対する「破壊者」を支持するのは、小泉首相の人気ぶりとも重なる。

 だが所詮は、石原氏も小泉氏もあだ花にすぎない。靖国問題で「外交の素人」を露呈した小泉氏、自己保身ぶりがいかにも「格好悪かった」石原氏。奇しくも、メッキが剥げる時期も一緒だった。二人が遠い縁戚というのも肯ける。 (北村肇)

ベトナム戦争30年。反戦デモで感じた、あの“悔しさ”に終結はない。

 雨が、大地にとり、生きとし生けるものにとり、恵みとなることは理解できる。それでもなお、雨は好きになれない。陰鬱な感じがじっとりと全身をなめ尽くす。こっそり忍び寄ってきた物の怪が、ぬめぬめとした手で「魂」を包み込む。得も言われぬおぞましさに震えたのは、梅雨の病床にいた小学生の悪夢。
 
 今年、終結30年を迎えたベトナム戦争。なぜか雨のイメージがつきまとう。密林を突き破るスコール、泥だらけの戦場。報道写真や関連映画の場面が、輻輳した記憶となって刻み込まれたのかもしれない。あるいは、敗戦が見えても撤退しない米軍に向けられた、「泥沼」という言葉が染みついたのか。
 
 当時を振り返り気が付いた。「雨」と「涙」のつながり。安っぽい演歌のようだが、確かにベトナムの雨は涙を呼び覚ました。

「国家」が、理不尽に非道に「命」を蹂躙する。戦争はそんなものといってしまえば、身もふたもない。圧倒的な国力を誇る米国は、枯れ葉剤の使用という暴挙をも何食わぬ顔で行なった。一方、泥まみれになり、「尊厳」を背負って闘うベトナム人民。無力とみえた彼ら・彼女らがやがて勝利をたぐりよせていくさまは、名状しがたい震えをもたらした。

 一方、平穏な東京で日常のように行なわれる反戦デモ。学生にとって、そこへの参加はいわば“義務”だった。米国への憤りはこらえきれないほどだったが、何も知らない、何も語れない、何もできない……雨中のデモは、無力で浅薄な私の涙を覆い隠した。

 時代が移り、ベトナムは米国と“和解”、驚異的な経済発展を遂げる。「資本主義対共産主義」という構図は、過去の遺物と化したかのようだ。だが米国は覇権国家として、アフガニスタンでイラクで、再び武力侵略を繰り返した。「民主化」という大義名分も、その本質は、ベトナム戦争時代と何ら変わりはない。米国の本音は常に、「自国の経済的利益確保」にある。

 枯れ葉剤の惨禍を改めて今週号で特集した。イラクの劣化ウラン弾がもたらす悲劇も、いずれ世界から指弾されるだろう。30年間、世界は、日本は、メディアは、そして自分は何をしてきたのか、してこなかったのか。降りしきる雨のデモで感じた、悲しみとは違う、あの悔しさ、もどかしさに終結はない。(北村肇)

いまだにおかしい、マスコミの武富士への対応

 武富士の広報担当者に、こんな話しをしたことがある。「御社に不祥事があれば記事にしますが、武井保雄さんの個人的な醜聞は書きません」。『サンデー毎日』の編集長をしていたころで、まだ「盗聴事件」は発覚していない。だが武井会長(当時)にまつわる私的なスキャンダルは、たびたび雑誌で報じられていた。

 権力を持つ立場にある人は多少、プライバシーが侵害されるのはやむをえない。一挙手一投足が周囲に大きな影響を与える以上、いつも「見られている」状況は一定、受容するしかない。そこは一般人とは異なる。当然、メディアも、時にその言動を報じる。好ましい表現ではないが、ある程度“有名税”は避けられないのが現実だ。

 しかし過去の経歴や家族のこととなると、話しは別だ。仮に、ある政治家や大企業のトップに逮捕歴があったとして、それを報じることは名誉を侵害する。また、「○○政治家の息子が逮捕された」といった類の記事も、原則として実名を書くべきではない。本人と家族は別人格であり、そこまで踏み込む権利はだれにもない。

 だから本誌は、一度たりとも武井氏の私的醜聞を書いたことはない。あくまでも、武富士の問題点、トップとしての武井氏の責任を追及してきた。だが武富士は本誌を名誉毀損で訴えてきた。本末転倒。名誉を毀損されたのは本誌であり、筆者の三宅勝久氏である。

 今週号でも特集したが、武富士商法には数々の問題点がある。しかも、それを隠蔽し、批判的記事が出ると著者を盗聴するという、それこそ人権侵害の犯罪まで行なっていた。一方で、新聞社やテレビ局には多額の広告を出すことで、批判封じを狙っていた。特集では、各新聞社に対し行なった「武富士の広告と紙面についてのアンケート」結果も掲載したが、実にそっけない回答ばかり。「武富士とのことは触れないでほしい」という雰囲気がありありだ。

 メディアは、「報じるべきではない」ことを報じてはいけない。だが「報じるべき」ことは報じなくてはならない。武富士問題に関していえば、いまだにマスコミの対応はおかしい。なぜ、武富士の広告は解禁しながら、言論弾圧ともいえる「不当提訴」について、きちんと報道しないのか。

 こうしたことを、武富士の代理人、弘中惇一郎氏はどう考えているのだろう。報道被害者救済など、人権派弁護士としての活動に尊敬の念を抱いていたのだが。 (北村肇)