編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

憲法、教育基本法の圧殺をもくろむ永田町や財界は、戦争大好きな男性「性」の巣窟だ

 気が付いたら、この言葉をメディアで見かけることがほとんどなくなっていた。「共生」「ノーマライゼーション」。代わりに跋扈しているのが「自己責任」「勝ち組負け組」。次に消されるのは「ジェンダーフリー」、その跡地に居座るのは「父権復活・愛国」になるのだろうか。歴史の逆回転も極まれり。
 
 否定できない事実に「戦争の主体は男」がある。戦争を引き起こすのも、遂行するのも、大体において「男」だ。自らの体内から生命を産み出せない男性「性」は、宇宙とのチャネルがなく大地にも根付くことができない。この劣等意識がいきおい、世俗的な利益追求、「勝利」による優越感に向かわせる。

 家庭では肉体的な「力」と社会的基盤を誇示して君臨し、職場では「他人より出世したい」という単純かつ哀れな欲望で身をすり減らす。求めるのは、闘争による勝利と征服感。その究極が戦争であるのはいうまでもない。「聖戦」など言葉の踊る大義名分は、およそ後からとってつけたものだ。

 しかも軍隊は、女性を「銃後」という「間接的戦争推進班」の位置に押しやる一方、「健常者でない者」を差別、排除する。肉体的な「力」により甲種、乙種などと区分けしたうえで、障がい者はまるで「役立たず」かのごとくに烙印を押す。敗戦は、かような腐臭ふんぷんたる体質を一掃する機会を日本に与えたはずだ。

 戦後の、そうした流れの中で、「共生」は男性「性」からの脱却とともに、「まともな男が社会を支える」という、それこそまともではない発想の駆逐を目指してきた。まがりなりにも、女性が社会で活躍できる環境を整えようという動きは活発となり、障がい者がある程度、街に出られるようにもなった。学校の男女混合名簿も違和感がなくなってきた。さあ、これからさらに「共生社会」を実現化しようという機運が高まっていた、まさにそのときである。

「戦後民主主義の間違った平等主義」などという、たわごとめいた言説が大手を振って歩き回るようになり、「男性は外で働き、女性は家を守るのが美徳」といった時代錯誤以前の主張さえ聞かれるようになった。 

 そしていま、すべての人間の平等をうたった憲法や教育基本法が圧殺されようとしている。戦争大好きな男性「性」がはびこる、永田町や財界の汚れた手で。(北村肇)

「郵政」「解散」と騒いでいるうちに、「共謀罪」も「教科書問題」も市民の目から隠されていく

 解散風が吹き始めた。予言者よろしく、「夏から秋にかけて解散」と言い続けてきた。根拠は単純だ。郵政民営化は思ったよりもめる、それでも自民党議員は「さすがに小泉首相もどこかで折れる」と高をくくる、だが理解を超える“変人”は「俺の言うことを聞かないなら選挙だ」とテーブルをひっくり返す。

 小泉氏の性格と自民党議員の古色蒼然たる“常識”を考えれば、容易に想像のつくことだ。といって、政界の一寸先は闇。どうころぶかはわからない。むしろ、かように悪辣なシナリオを書ける知恵者はどこのだれかと考えてみる。

 何しろイラクで自衛隊の車列に爆弾が仕掛けられようが、ロンドンでテロが起きようが、永田町ではひたすら「郵政」「解散」という言葉が飛び交う。そして、メディアもそれに乗り、あおる。かくして日本の将来を危うくする動きは、驚くほど市民の目から隠されているのだ。

 先週号で報じた「共謀罪」しかり、そして今週、特集した教科書問題もしかり。

 ご承知の通り、4年前、「自虐史観排除」を掲げた「つくる会」教科書が突如、登場。中学校教科書の採択に名乗りをあげ、全国的な運動を展開した。だが、国内ばかりかアジア各国からも激しい批判を浴び、結果としては、「つくる会」の完敗に終わった。

 しかし4年間で状況は大きく変わった。たとえば、「つくる」会教科書の支持者である石原慎太郎都知事の「日の丸・君が代都政」が教育現場に恐怖政治をもたらし、埼玉県では上田清司知事が、「つくる会」の関係者を教育委員に登用するという信じられない暴走を行なった。

 一方、自民党も躍起になって動き回った。中山成彬文部科学相は公然と「つくる」会教科書を支援、地方自治体では、同教科書の採択を目的にした請願が相次いだ。遺憾ながら、こうした動きは、それなりに力を発揮してしまったようだ。

 市民の多くが、「つくる会」教科書を受け入れるとは到底、思えない。だが、問題の重要性が報じられなければ、どうにもならない。「郵政」はみごとなまでに目くらましとなり、この国はまた一歩、アジアから孤立する道へと進んでしまった。(北村肇)

8月15日の小泉首相靖国参拝は、外交的にみれば「宣戦布告」にほかならない

 話題になった本で、古本屋に出さず本棚にしまっておこうと思うものは滅多にない。『バカの壁』は付箋をはる頁がまったくなかったし、『世界の中心で、愛をさけぶ』は、職業柄やむなく読破したが、本来なら途中でゴミ箱いきだ。『頭がいい人、悪い人の話し方』といったたぐいの本は、立ち読みでも時間がもったいない。だが、このベストセラーは違う。すでに二四万部突破、高橋哲哉氏の『靖国問題』。

 俗にいう「堅い」本だ。お手軽本やお気軽本ばかりが売れる昨今、出版元も驚いているという。私も売り上げ部数を聞いたときは冗談だと思った。しかし、考えてみれば当然でもある。連日、これほどメディアを騒がせているのに、「靖国」の本質はなかなか把握しにくい。「東京招魂社」に始まる歴史的経緯も、誰もが知っているわけではない。気鋭の学者は、それらの基本的事実を踏まえた上で、見事な包丁捌きにより「靖国」を解体し、謎解きをした。

 本誌今週号は、高橋氏とは異なる手法で「靖国」を分析した。むろん、得られる結論に本質的な違いはない。つまるところ、「靖国」は日本固有の問題ではない。「国家」のために命を失った者を哀悼する、この人類共通ともいえる「心性」を利用し、哀悼を顕彰へ、戦争を聖戦へとすり替える。密やかな国家の企みを凝視しなくてはならない。「靖国」的なるものは間違いなく、戦争再生産のための装置になりうるのだ。

 一方で、矛盾するようだが、「靖国」は日本固有の問題としての側面ももつ。「国家」という幻想を「天皇」という現人神に結びつけたことにより、「靖国の英霊」は、「天皇」によって祀られるという構図ができあがった。

「靖国」を「天皇の神社」と認識している人たちが、天皇の靖国参拝を求めているのは言うまでもない。首相の公式参拝が定例化すれば、「次は天皇」という動きが加速するだろう。自民党の憲法改悪案の中には、首相靖国参拝の違憲状態解消を目指した項目が含まれている。不戦の9条と戦争装置の「靖国」とは、決定的に対立するのである。

「憲法改悪」「靖国参拝」とくれば、戦争再生産のための装置がいよいよ現実のものとして立ち上がってくる。先の大戦の被害国が、そのような不安感を抱くのは当然である。小泉首相のかたくなな姿勢をみると、大東亜共栄圏を目指した戦前回帰こそが目的のような薄ら寒さすら感じる。でなければ、およそ無定見にアジア各国をあおる意味がわからない。8月15日の参拝は、外交的にみれば「宣戦布告」にほかならないのだ。(北村肇)

限界を突き抜けた辺見庸氏の鋭利な言説に、驚嘆し畏怖する

 出る杭は打たれるが、出過ぎた杭は打たれない。だから、長いものに巻かれずがんばったほうがいい。よく言われる言葉だ。だが、さらに出過ぎたときは抜かれてしまう。そこで、それを防ぐための戦略が欠かせない。打たれそうになったら出る、抜かれそうになったら引っ込む。といっても、これは私のごとき凡人のこと。打たれても抜かれても痛痒のない傑物も存在する。
 
 辺見庸氏もその一人だ。紡ぎだされた一つ一つの言葉から、容赦ない怒りが四方八方に飛び交う。相手は爛れきった政治家、糞バエに成り下がった新聞記者、浮いた言葉に酔う似非知識人。当然、周りを無数の敵に囲まれる。弾を受けた権力者は必死に「辺見庸」という杭を抜こうとする。だが抜いても抜いても消えることのない杭に、ついには恐怖感すら覚え、あきらめる。

「辺見氏倒れる」の報を昨年、聞いたとき、思わず「やはり」とつぶやいた。憤怒の塊はいくら外に投げつけようと、自らの内にも沈殿する。それでもなお突き進めば限界が来る。凡人は限界を知り、一旦ステージを降りるか、休息に入る。だが「辺見庸」はしゃにむにイラクに行き、全国各地で講演し、倒れた。

 本誌読者からたびたび問い合わせがある。「辺見さんの健康状態はどうなのでしょうか」「『週刊金曜日』に何か書いてもらえないのですか」。何度か、連絡を取ろうと思った。イラク、憲法改悪、靖国……語ってほしいこと書いてほしいことは数え切れないほどある。だがやめた。執筆の可能な状態にあるのは人づてに聞いたが、なんとはなしに、「時」は自然に訪れるという予感があった。 

 しかして、今週号より事実上の復帰第一作となる集中連載が始まった。インタビューに答える形の書き下ろしという、新しい表現方法は辺見氏の発案である。「いま、『永遠の不服従』とは何か――死、記憶、時間、恥辱、想像力の彼方へ」というタイトルも氏がつけた。

 辺見氏には無頼のイメージがある。生活ぶりに限ればそうかもしれない。だが、そんなのはとるに足らないことだ。生命の微妙で微細な震えを感じ取ることができる魂。その持ち主には、そうそうお目にかかれない。限界を突き抜けた傑物の言説はさらに鋭利となり、鈍感な輩どもにぎりぎりと迫る。驚嘆し、畏怖しつつ、ふと浮かんだ言葉遊び。「杭に悔いなし」。(北村肇)

心ある警察官のみなさん、「正義の味方」月光仮面になってください

 刑事物の漫画には、きまって二通りの警察官が登場する。腕力は強いが緻密な捜査は苦手の体力派、線は細いが知恵と推理で犯人を追いつめる理論派。お互い敵対しつつも、どこかで認めあっている。自分にないものを持っているからだけではない。「正義感」という共通の思いでつながっているからだ。

 正義感とは何か。「強きをくじき弱きを助ける」「悪漢をこらしめる」。いつの時代もこれは変わらない。子どもにとって、お巡りさんは「悪者をやっつけてくれる」正義の味方だった。いたずらをすると、母親に「お巡りさんに言いつけちゃうよ」と叱られた。「大きくなったら何になりたい?」と聞かれ、「お巡りさん」と答える子どもは、今でもたくさんいることだろう。

 だが、警察のほうは大きく変わってしまった。目の前で暴行され助けを求めた市民を救わない、一方で、「イラク自衛隊派兵反対」のビラや政党チラシをまいただけで逮捕する、裏金つくりの内部告発があっても知らぬ存ぜずを押し通し、逃げ切れなくなってからようやく一部を認める……。こうしたことを引き起こす警察の体質には、「正義」のかけらもみられない。

 むろん、心身を削って市民のために働いている警察官がいることは確かだ。取材の過程で、頭の下がる思いがする警察官にもたびたび出会った。犯罪の多様化、国際化など、警察にとって厳しい状況であることもわからないではない。しかし、根本的な体質改善に向け、警察当局が組織として努力しているかといえば、首を傾げざるをえない。

 たとえば、窃盗や強盗の捜査より公安事件に力を入れるなどは到底、納得できない。今週号の特集で明らかになったように、「公安警察は予算を確保するために、実態が伴わなくても、依然、左翼団体は危険と主張する」といわれる。さらには、内部告発した警察官を「何とか逮捕するために」尾行までするという。市民の立場として、そんな暇があったらひったくり犯や強盗を捕まえてほしい、と考えるのは当然だろう。

 かつて、特高警察は罪なき人々を逮捕し、拷問にかけ、死に追いやった。その反省から警察は「正義の味方」になることを誓ったはずだ。心ある警察官のみなさん、どうか月光仮面になってください。そして、保身に走るだけの幹部がおかしな言動をしたら、市民のためにこそ彼らと闘ってください。(北村肇)