編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

市民が求めるのは、いざというときに安心して頼れる、心も度量も「大きな政府」だ

 日本は世界で5番目に貧困率(国民平均の半額以下の所得しかない家計の率)の高い国だ。15・3%というのは、10年前の約2倍という。OECD(経済協力開発機構)の調査によるもので、ちなみに上位(下位?)の4カ国はメキシコ、米国、トルコ、アイルランド。もっとも貧困率が低いのはデンマークで4・3%となっている。
 
 また厚生労働省によると、日本の世帯別所得水準は、80年代前半は上位2割と下位2割の差が10倍以内だった。それが90年代後半から急激に広がり、02年には168倍に達したとされる。一方、メリルリンチ日本証券の調査では、資産が100万ドル以上ある世界の億万長者の約6人に1人は日本人だという。日本が「一億総中流」というのは、遠い遠い昔の話。今や、米国並に「貧富の差の激しい国」なのである。
 
 だが、政府が貧困率を下げようと努力している様子はまったく感じられない。むしろ、「稼げないのは自己責任」とばかりに、低所得層を切り捨てようとしている。定率減税の廃止、所得税アップ、年金改悪等々、あげたらきりがない。

 錦の御旗は財政再建だ。日本の赤字は800兆円に近づき、このままでは「倒産」しかねない、だから痛みは我慢してほしい――。冗談ではない。
 
 赤字国債発行は抑えるとの公約を平気で破り、「大したことはない」と開き直ったのは誰か。その張本人が、「郵政民営化で経済は活性化」という錬金術まがいのデマで国会を略奪した。今週号で特集したように、郵政を民営化すれば市場に大量の資金が市中に流れ、結果として経済成長が高まるなどというのは、何一つ根拠のない絵空事だ。

 そもそも郵貯のカネを担保に借金を重ね、国家財政を破綻した責任はどうなる。市民が郵便局に預けたお金を運用しなければ国家の運営ができない、そんな歪んだ財政構造にしてしまったことを反省し、それこそ「抜本的な改革」をしない限り、「倒産」は防げないはずだ。
 
 しかも、郵政民営化は米国の後押しで進められたものであり、郵貯マネーに触手を伸ばしている米国企業が背景に潜んでいることは自明になりつつある。財政破綻のツケは国民に回したうえ、米国だけを潤すというのなら、永田町も霞ヶ関もいらない。市民が求めるのは、「小さな政府」でも「効率的政府」でもなく、いざというときに安心して頼れる、公正で、心も度量も「大きな政府」なのである。(北村肇)

「小泉劇場」の熱病に冒されたデジタル型社会の日本は、秋風に癒されるのだろうか

 絵の具を使い始めたばかりの子どもが描くような、青一色に入道雲一つの夏もいいが、うっすらとした雲が幾重にも折り重なった、微妙なグラディエーションの秋空に、より風情を感じる。疲れているのだろうか。炎暑はすべての細胞から水分を奪いさり、魂の潤いすらも危うくさせる。今年の残暑は一入だった。

 炎天下、ライオン髪を振り乱し、涸れた声で叫び続ける彼の言葉にあるのは、「黒」と「白」だけだった。さまざまな濃度で味わいをつける「灰色」は、まったく存していなかった。国のゆくえを占う総選挙は小泉首相の「丁半博打」に翻弄され、多くの有権者が勝った負けたの熱病に罹患した。

 総取り状態で、海外メディアに「皇帝」とすら評された小泉首相は、意気揚々と郵政法案成立を宣言し、後継者選びにまで言及した。二者択一の選挙は「自民対民主」ではなく「小泉対反小泉」だった。そのことが、時間がたつにつれ、ますます明確になってきている。有権者は小泉皇帝にすべてを託したのである。たとえそこまでは望んでいなかったとしても、「○」か「×」かの選択とはそういうことだ。

 木陰に潜むひんやりした風に秋を実感し、人々は冷静さを取り戻すだろうか。社会は原色だけでは彩られないことに気づくだろうか。不安は、私たちがデジタル型世界に慣れきってしまったことだ。だからこそ、小泉マジックにも簡単に乗ってしまったのではないか。

「1」と「ゼロ」しかない空間はわかりやすい。一方、永田町にはびこっていた「派閥政治」「建て前」「腹芸」「料亭政治」などはアナログ型だ。わかったようでわからない、顔色と腹の探り合いで、微妙な問題が収まるところに収まっていく。まさしくそこに、負の意味での「灰色の世界」が生まれる。この因習をぶっ壊した、「なんのしがらみもない」小泉首相に支持は集まった。それが今回の選挙結果だろう。

 しかし、もう一つの真実に目をこらさざるをえない。デジタル社会こそ、現代人の疲労の要因にほかならないということだ。「1」と「ゼロ」しかなければ、人は「1」の側に属したいと思う。当然、「勝ち組」になろうとあがけばあがくほど、精神的抑圧は高まり、疲弊感は強まる。皮肉なことに、疲れているが故に、単純な賭博にもはまりやすい。

 デジタル社会では排除されがちな「あいまいさ」。だが、それが時に、癒しとなる。人間も世界も、本質はグラディエーションだ。(北村肇)

「小泉圧勝」にビビることなく、あきらめず、沈黙せず、したたかに

 総選挙の結果をみて、もっとワイドショーを見なくてはと思った。あまりの低俗さとばかばかしさに、ほとんどチャンネルを合わせたことがなかったが、今回は解散後、何度か見た。異常な「小泉人気」の原因を知りたかったからだ。案の定、そこに謎解きの一つのカギがあった。
 
 ニュースキャスターやら評論家やらが、いかにも重要なニュースという装いをこらしつつ、「小泉」対「反小泉」のケンカを面白おかしく論評する。「刺客」も「反乱軍」も扱いはタレントと同じ。政策はそっちのけ、「誰それに握手を拒否されたが、これがプラスになるか、マイナスになるか」といったことを、まじめな顔で議論している。

 中には、スタジオに共産党や社民党の議員を呼びながら、あからさまに無視する司会者もいた。民主党ですら刺身のつま。総選挙の焦点は「小泉」か「反小泉」しかないと、視聴者には刷り込まれたことだろう。となれば、ケンカを仕掛けた側の小泉氏が有利に決まっている。孤軍奮闘、古びた因習に囚われる老政治家を蹴散らし、しゃにむに改革に突っ走る一匹狼の首相。ぼうっと見ていると、不思議に「小泉流」が潔く、かっこよく思えてくる瞬間があるから怖い。
 
 これに対し、民主党の岡田代表は戦略を間違えた。政策論争を挑むのは正しいし、当然のことだ。しかし、相手が差しでケンカを挑んできたときに、しかめっ面で「マニフェスト」と繰り返したのでは勝ち目がない。しかも自民党との明確な対立軸もなかった。ここは一発、殴り返したうえで、改めて自分の土俵に引っ張り込むくらいのしたたかさがなければ、政権奪取は無理だ。有権者は無意識に、そのことを感じ取ったのではないか。

 結果は、自民党の圧勝。だが、戦いは終わったわけではない。ここまで政治は見せ物に成り下がったのかと慨嘆しながら、気を取り直してもいる。理由の一つは「テレビが生んだ人気者はテレビが葬る」という歴史だ。この世界では、上り詰めた者が生き残るには悪役か三枚目になるしかない。視聴者の嗜好性とはそんなもの。であるなら、小泉氏のテレビ的な賞味期限は「圧勝」で終わっていいはずだ。

 テレビに期待するのが矛盾なのはわかっている。見通しが甘すぎるという批判もあるだろう。だが、格好つけている暇はなく、利用できるものは何でも利用し、やれることは何でもやるしかない。自民党はともかく、日本をぶっ壊されたのではたまらないから、あきらめず、沈黙せず、したたかに。(北村肇)

与党にも反乱軍にも最大野党にも、一票を投ずる気になれない理由

 誰とは言わないが、やけに色白に写った選挙用ポスターがある。目をこらして見ると、シワもしみも一つとしてない。そこに婉然とした笑み。正直いって、おぞましく胸くそ悪い。この平板とした写真から、そこはかとなく浮かび上がってくるのは、しみだらけの心根だ。国のことも市民のことも、実は頭の中に露ほどもないのに、自らの地位の確保に恋々とするいやらしさ。

 さて別の候補者は、と目を移したところで、心を惹かれるポスターがそうあるわけではない。非情な首相に反旗を翻し、「革命軍」よろしく勇ましげに構えたところで、所詮は軍事力強化を目指す憲法改悪論者というのでは、しゃれにもならない。こうした候補者は、小泉首相が退陣さえすれば、何事もなかったのかのように自民党に復党し、旧態然たる利権政治を復活させるのだろう。

 といって、最大野党の候補者が輝いているかといえば、さにあらず。なにかしらくすんだ印象しかない。「小泉劇場に惑わされるメディアの責任」といった声も出ているが、何を甘えているのか。問題は、有権者の耳目を集める魅力ある政策のないことだ。

 そもそも、一時は小泉首相との共闘論が永田町で囁かれたほど、両者に大きな違いはなかった。郵政民営化しかり。であるなら、どこがどう異なるのかを明確にしたうえで、もっと独自の政策を大胆に具体的に提示しなければ、支持を集められるはずもない。「マニフェスト」「命がけで」という言葉ばかりが耳に残っているのは私だけだろうか。

 ここはひとつ、少数政党に期待するしかないのかもしれない。一時、「何でも反対」と野党は揶揄されたが、政権に遠いからこそ「言いたいことが言える」という面もある。権力を持ったり権力に近づくと保守化するのは世の常だ。それをチェックする政党があってはじめて、政権党も襟を正さざるを得なくなる。二大政党が同じような政策を掲げている現状では、なおさら「何でも反対」が意味をもってくる。

 企業と同じだ。監視機能を持つ労働組合が力を失えば、会社は堕落する。健全野党がなければ、国は滅ぶ。

 それにしても、なぜ「落としたい候補者を選ぶ」選挙が実現しないのか。輝きのある候補者が少なければ、だめな連中を国会に送らないようにするしかない。結果として、定数削減にもつながるだろう。(北村肇)

エセ任侠、小泉首相の声やしぐさが、だんだん「あの人」に似てきた

 政治が「劇場型」になったといわれて久しいが、今回の総選挙は「リング型」だ。多くの有権者が、永田町の格闘技を見て興奮している。「劇場」には、まだそれなりの文化的背景があると言えなくもない。観る方も、ドラマの成り行きを追いつつ、それぞれの演技者の真意を推し量ったりする。だが、とにかく相手をぶちのめせばいいリング上では、パンチやキックの強さが最大のポイントだ。知恵はなくても、腕力があれば勝ち抜くことは十分、可能である。

 小泉首相はもともと、ケンカ上手の政治家といわれてきた。理念や理想を語るより、口をとがらせて持論をまくしたてるほうが得意なようだ。腹芸は得手ではない。料亭政治にうんざりしてきた市民・国民が喝采を送った理由の一つもそこにある。だが、「殺されてもいい」という啖呵を聞かされたりすると、慄然とする。腹芸もないが知恵もない、理屈ぬきで相手を殴り倒したいような人に、この国の舵取りを任せているのだから。

 70年代、学生の間で、高倉健らの任侠映画が大流行した。当時は「反体制」の雰囲気を感じ取ったからだが、今にして思えば、「義理と人情」「涙と復讐」といったヤクザ的世界への憧れにすぎなかったのだろう。小泉氏の言動から「義理と人情」はまったく感じられない。だが、任侠とは質の違った「涙と復讐」はあふれんばかりだ。

 小泉氏が特攻隊に涙したのは有名な話しだが、「かわいそう」という感情に突き動かされただけのように思う。それも、「戦場で散った無念の死」に対する同情で、その背景にある戦争の本質に思いを寄せていた形跡はない。でなければ、イラクに自衛隊を派兵したうえ、「自衛隊の行っているところが安全地帯」といった妄言を吐くことはありえない。さらに言えば、小泉氏の心にある「無念」は、国家権力に人権を踏みにじられた「無念」ではなく、戦争に負けることによって命を失った「無念」なのだろう。

 また、小泉氏の「復讐心」は、恩ある人の「仇を打つ」ことではない。自分の言うことを聞かない、あるいは自分に反対する人間への怒りというわがままな感情だ。ヤクザを美化する気は毛頭ないが、少なくとも彼らの世界には、彼らなりの「義理と人情」がある。 
 
 脚本のある「プロレス」人気は下火になり、ガチンコの格闘技がファンを増やしている。非情なまでに相手をぶちのめす”強い”ファイターがもてはやされる。鬱屈した時代にありがちな「強者への憧れ」が、エセ任侠の小泉人気を支えているのだろう。最近、表情も声も、ちょび髭の「あの人」に似てきたという感覚が杞憂に終わればいいが。(北村肇)