メディアが権力に屈するのは圧力のためではない。はねかえす決意がないからだ。
2005年10月14日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
韓国のインターネット新聞『オーマイニュース』の成功で、「市民記者」に光が当たりつつある。新聞記者が一方的に情報を流すのではなく、読者との双方向性を模索しようと、私自身、永い間、提起し続けてきた。記者はときに視野狭窄に陥る。市民の視点がそれへの有効な批判につながることは多々ある。その意味では、ネット時代に生まれた「市民記者」は大きな前進と言えよう。だが、正直に言って、昨今の傾向にはどこか違和感もつきまとう。
プロとアマの違いがあいまいになっているからだ。どんなに日曜大工がうまくても、看板を出して営業する建築士にはなりえない。逆に言えば、日曜大工程度の腕でプロを名乗ることは許されない。これはどんな世界にでもあてはまることで、ジャーナリストも例外ではない。
たとえば、新聞社は24時間、日本中、あるいは世界中に記者を配置している。しかも情報の発信源として欠かせない場所はほとんど網羅している。なおかつ、記者は日常的にジャーナリストとしての訓練を積んでいる。いかに優秀でも「市民記者」にはこれだけの条件が与えられることはない。プロ記者の価値と「市民記者」の価値が同等のはずはないのだ。
しかし、ライブドアの堀江貴文社長が言い放ったように、既存のメディアに期待するものはないという風潮が紛れもなくある。ネット上に一般の人が書き込んだ情報のほうが有用、という声もたびたび聞く。理由はあげつらうまでもない。新聞記者も放送記者も信頼されていないのだ。
いま問われなければならないのは、「プロとしての自覚」だ。名誉や地位や金銭的利益にとらわれず、市民のために権力の監視ができているのか。すべてのジャーナリストは、存在を賭けてその問いに答えなくてはならない。
今週号の特集では『朝日新聞』を批判した。右派メディアと同じ論陣を張るつもりはない。叱咤激励して、蘇ってほしいとの一点だ。もし同紙までが右傾化し権力を批判できなくなったら、この国は間違いなく奈落の底に墜ちる。
現場記者はもちろん、経営陣に言いたい。権力に屈するのは圧力が強いからではない。はねかえす決意と胆力がないからだ。(北村肇)