警察とメディアが自浄能力を失ったとき、死んだはずのゾンビが蘇る
2005年10月28日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
なぜ「法律」や「規則」があるのか。人間は本来、自由だからだ。何をしてもいい、でも、それでは衝突することもある。だから最低限の「枠」をつくろう。これこそが人類の知恵だ。だが昨今、この国の為政者は「もともと国民に自由はない。やっていいことは政府や議会が決めてやる」と考えているようだ。
何しろ、「国家権力を縛る」目的の憲法を「国民を縛る」ものに変えろという国会議員がいるのだから凄い。よほど、従順な市民をつくりたいらしい。では、国の命令に従わなかったらどうなるのか。秩序や治安を侵した者として排除される。非国民というわけだ。その延長線上で、「ささやくだけで逮捕される」共謀罪も出てきた。いやはや、この60年間、どこまで知恵を後退させたのか。
本誌はキャンペーン企画として「警察の闇」を特集してきた。今週号が第4弾。裏金問題の底深さもさることながら、自浄能力の欠如した警察組織に唖然とする。正義の立場で内部告発した警察官を叩く、報道したメディアに報復する。これでは「ヤクザよりひどい」と言われても仕方ない。
心ある警察官はたくさんいる。取材体験の中でそれは断言できる。痛飲しながら、お互いに「組織と上司」の批判をしたこともたびたびだ。そう、新聞社もまた自浄能力の欠けた組織なのである。
裏金問題を徹底的に追及したのは、北海道新聞、高知新聞、愛媛新聞など地方紙だけだ。全国紙はおよそ、おざなりの紙面しかつくっていない。理由は簡単。「警察を批判したらネタがとれない」「ネタがとれないと社内の評価が下がる」「評価が下がれば出世できない」。
かつてメディアと警察は、いい意味での緊張関係があった。不祥事を書いても、それで関係の切れることはなかった。どこか深いところで、ともに「社会のために働いている」という意識があった。青臭かった。評価や出世を一番に考える警察官や新聞記者は、むしろ少数だった。
特高警察、ナチの親衛隊……おぞましきものどもは骸と化し、過去の遺物として語られてきた。しかし実のところ、特高の魂はしぶとく生き続け、新たな権力の胎内で孵化しつつある。それをチェックするマスコミはない。この化け物は人間の自由を食い尽くし、巨大化する。そして一旦成長したら、もはやいかなる人間の手にも負えなくなる。(北村肇)