編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

06年は、不思議な保守革命があらわになった年として、歴史に黒いシミを残す

 月刊誌に載った中曽根元首相の発言に瞠目した。

「基本線、本命は、池田内閣以来棚上げしている憲法改正です。立党50周年式典でいよいよ自民党の憲法改正草案が示される。将来日本に静かな革命を起こし、いずれ明治憲法、昭和憲法、平成憲法と受け継がれて、5年後位に第三維新を引き起こす原動力になります。これが結党50周年からの新しいスタートということになるでしょう」

 中曽根氏がつくった自民党憲法草案前文の意味が腑に落ちた。

「日本国民はアジアの東、太平洋と日本海の波洗う美しい島々に、天皇を国民統合の象徴として戴(いただ)き、和を尊び、多様な思想や生活信条をおおらかに認め合いつつ、独自の伝統と文化を作り伝え多くの試練を乗り越えて発展してきた。(略)日本国は自由、民主、人権、平和、国際協調を国の基本として堅持し、国を愛する国民の努力によって国の独立を守る」

「日本国民は正義と秩序による国際平和を誠実に願い、他国と共にその実現の為(ため)協力し合う。国際社会に於(お)いて圧制や人権の不法な侵害を絶滅させる為の不断の努力を行う。(略)」

「日本国民は大日本帝国憲法及び日本国憲法の果たした歴史的意味を深く認識し現在の国民とその子孫が世界の諸国民と共に更に正義と平和と繁栄の時代を内外に創(つく)ることを願い、日本国の根本規範として自ら日本国民の名に於いて、この憲法を制定する」

 目指すのは、1945年以前の「大日本帝国」なのであろう。天皇のもとで、すべての国民が国家のためなら自らを犠牲にするとの覚悟をもった国。これは「主権在民」「基本的人権」を謳った現憲法の廃棄、つまり明らかな「革命」なのである。
 
 中曽根氏作の前文はボツになった。代わりに、最終的な前文に色濃く反映されたのは日米同盟の強化である。それでも「主権在国」の機軸は変わらない。

 旧態依然たる愛国主義と、米国への属国化を背景に新自由主義がない交ぜになった、この不思議な保守革命があらわになった年として、05年は歴史に黒いシミを残すだろう。(北村肇)

「医療過誤訴訟百年」に思う。“赤ひげ先生”探しは木によって魚を求めるがごとしか

 今年は「医療過誤訴訟百年」にあたる。その特集を組みつつ思い浮かべた、医師や医療関係者の言葉あれこれ。

「著名な歌手が自殺未遂で救急に運び込まれた。蘇生はとても無理に思えたが、必死で治療した。何しろ有名人だからね。できればうちの病院で死なせたくない。結果として命だけは救った。同じ状態のホームレスがかつぎ込まれたら、何もせず数分後には霊安室に運んでいただろう。私は心臓移植手術には一貫して反対している。医師の仕事をしていると、科学では割り切れない、絶対的な命の尊厳を感じるときがあるからだ。だから命に差をつけるのがおかしいことはわかっている。でも仕方ないな、うん、仕方ない」

「北村さん、なるべく国立病院にはいかないほうがいいよ。ホームドクターをもたなければだめだ。大病院は検査に頼って、数字ばかりみている。機械が正常に機能しなければ、即誤診だ。実は、私の妻が頭が痛いというので、国立病院に連れていったら『なんともない』との見立て。でもいつまでも治らない。そこで近くの個人医院で診察してもらったら、顔を見ただけで『すぐにきちんと検査しなくては大変だ』と言われた。あわてて別の総合病院で精密検査をしたら脳の梗塞が見つかり、危うく一命をとりとめた。立場上、こんなことは絶対に公にできないけどね」

「昔の医者はね、みんな患者の顔色で病名を言い当てたもんだよ。私も近所に住む患者のことは大体、わかる。風邪か、重篤な病気か、それとも二日酔いか。別に医者でなくても、親だってそうじゃない。自分の子どもが本当の病気か、学校に行きたくないための仮病かくらい、すぐにお見通しだ。でも、最近はそんな医者はほとんどいないね。“赤ひげ先生”なんてやってたら、もうからないしね」

「鍼はね、ツボに打ってはだめなの。すぐに治っちゃうじゃない。ツボの周りに打っておけば、患者は1週間、通ってくれる」

「ワクチンも薬も、大量に作っていると、何千本、何万本に1本は不良品ができる。これは避けられないんだよ。誰の責任というわけではない。だから私はなるべく自分の子どもにワクチンは射たない」

「末期がんです。手の施しようがない。確かに定期的に検診はしていました。なぜ発見できなかったのかって? 数値は正常だったんです」(北村肇)

姉歯事件は、効率優先の「民営化」に人命軽視の非人間性が潜むことを浮き彫りにした

 この人は信頼できるか、友人になれるか、その基準が固まり揺るがなくなった。リトマス試験紙はいくつもいらない。「命を超えるものは社会にあるか」。「組織あっての人間か、人間あっての組織か」。この二つを問いかければいい。命もカネで買えるとうそぶくようなヤツと酒は飲みたくない。市民より国を、社員より企業を重んじるような連中とつきあうのもごめんだ。

「命はなにものより大切」など、本来、言葉にする必要はない。人間の存在そのものに組み込まれている真理だからだ。

「国家(企業)は市民(社員)のためにあり、国家(企業)のために市民(社員)があるわけではない」も、そうそう反論を受けることはないだろう。

 だが、どんな疫病に侵されたのか、「天」と「地」をひっくり返してしまう人が増えた。「姉歯事件」に関わったとされる人々をみていると、おぞましさを通り越し、できの悪い喜劇を連想してしまう。「建設費を削減しろだと。だったら鉄筋を減らしてしまえ。どうせビルの寿命は数十年。いずれ倒れるんだから、わかりゃしないさ」。およそありえないことを大仰に演じていた役者が、実は本物の設計士だったら、しゃれにもならない。

 自社の、あるいは自分の利益のためなら欠陥住宅でも構わないという発想は、どこから出てくるのだろうか。マンションが倒壊し何人もの被害者が生まれる事態を少しでも想像したら、恐怖と自己嫌悪でいたたまれないはずだ。

 このような非人間性が「民営化」そのものに潜んでいることも、今回の事件で鮮やかに浮き彫りになった。国鉄民営化のときもそうだったが、国や自治体のすることは非効率的で税金を食いつぶすばかりという言説がふりまかれ、メディアも無定見に垂れ流す。しかし命を守るには、ときに非効率的なことが欠かせない。「なによりも大切な人命」のためには、予算とか利益とかを吹っ飛ばし、時間もカネも無制限にかけるのは当然である。

 強引な効率化は結局、命や人を粗末にすることの引き換えでしか“成功”しないのだろう。だからこそ、人命に深く関わることに関しては、利益を求めない「官」の役割が重要となる。なのに、政府は先頭に立って「小さい政府」を掲げ、経営効率を唱え続ける。そこまで効率を重視し、命を軽視するなら、いっそのこと今回の欠陥マンションは壊さずに、一部官僚や代議士の官舎にしたらどうか。 (北村肇)

「下流」の敵は、格差社会実現をもくろむ米国かぶれの為政者にあり

 公務員の賃金が高すぎると盛んに喧伝されている。もろもろの待遇も含めて考えれば、中小企業の会社員などより恵まれているのは確かだ。でも、公務員の収入で宇宙旅行するのは無理だろう。毎晩、都心の店でドンペリを飲むこともできない。本来なら、そうした大金持ちがまずは批判の対象になってもよさそうだが、そうならないのはなぜか。あまりに手の届かない「勝ち組」だからだ。

 自分とさほど差のない人が少しでも「いい目」を見ていると、つい足を引っ張りたくなる。そんな、ある種の”貧乏根性”が日本を覆い始めた。それを遠目からにやにやと眺めているのは、新自由主義というお題目のもと、格差社会の実現を目指してきた連中だ。米国かぶれとしかいいようのない小泉首相や竹中総務相の腹にあるのは、「国家に従順な国民をつくるには、平等社会が邪魔になる」ではないのか。

 「上流」が遠い世界になれば、「中流」意識はしだいに消滅し、「下流」に落とされた人たちは、それ以下に転落しないため、身の回りの仲間を蹴落とそうとする。決して「上流」に刃向かうわけではない。その一方で、保身のため、「強い」権力者に憧れ庇護を受けることに腐心する。為政者にとって、こんな都合のいい国民はいない。黙ってついてきてくれるばかりか、政策に反旗を翻す「非国民」を摘発し批判する役目まで担ってくれるのだから。

 株式市場は第二のバブル期といわれるほど活況を呈している。大企業は軒並み、史上最高益を記録している。だがほとんどの市民に「好景気」は実感できない。それもそのはず、国民の4分の1の人が、日本全体の所得の4分の3を占有しているのである。所得税の最高税率が37%という低率でとどまる限り、大金持ちのもとにますますカネは集まり、「下流」に属する人が「上流」に移行することは、宝くじでも当たらない限り、ありえない。
 
 基本的にはマーケティングの本に思える「下流社会」がベストセラーになるのは、タイトルにつられ買った人が多いからだろう。将来への「漠然とした不安」が、「明確な不安」になったとき、市民は権力者の思惑通り従順な子羊のままでいるのか、それとも怒りを為政者に向けるのか、予想はつかない。

 いずれにしても、いまの「日本という国家」には、すべての市民・国民が主権者であるという意識があまりに希薄だ。敵を見誤らないようにしよう。虐げられた者は互いに抱擁し、怒りの視線を為政者に集めよう。(北村肇)