「下流」の敵は、格差社会実現をもくろむ米国かぶれの為政者にあり
2005年12月2日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
公務員の賃金が高すぎると盛んに喧伝されている。もろもろの待遇も含めて考えれば、中小企業の会社員などより恵まれているのは確かだ。でも、公務員の収入で宇宙旅行するのは無理だろう。毎晩、都心の店でドンペリを飲むこともできない。本来なら、そうした大金持ちがまずは批判の対象になってもよさそうだが、そうならないのはなぜか。あまりに手の届かない「勝ち組」だからだ。
自分とさほど差のない人が少しでも「いい目」を見ていると、つい足を引っ張りたくなる。そんな、ある種の”貧乏根性”が日本を覆い始めた。それを遠目からにやにやと眺めているのは、新自由主義というお題目のもと、格差社会の実現を目指してきた連中だ。米国かぶれとしかいいようのない小泉首相や竹中総務相の腹にあるのは、「国家に従順な国民をつくるには、平等社会が邪魔になる」ではないのか。
「上流」が遠い世界になれば、「中流」意識はしだいに消滅し、「下流」に落とされた人たちは、それ以下に転落しないため、身の回りの仲間を蹴落とそうとする。決して「上流」に刃向かうわけではない。その一方で、保身のため、「強い」権力者に憧れ庇護を受けることに腐心する。為政者にとって、こんな都合のいい国民はいない。黙ってついてきてくれるばかりか、政策に反旗を翻す「非国民」を摘発し批判する役目まで担ってくれるのだから。
株式市場は第二のバブル期といわれるほど活況を呈している。大企業は軒並み、史上最高益を記録している。だがほとんどの市民に「好景気」は実感できない。それもそのはず、国民の4分の1の人が、日本全体の所得の4分の3を占有しているのである。所得税の最高税率が37%という低率でとどまる限り、大金持ちのもとにますますカネは集まり、「下流」に属する人が「上流」に移行することは、宝くじでも当たらない限り、ありえない。
基本的にはマーケティングの本に思える「下流社会」がベストセラーになるのは、タイトルにつられ買った人が多いからだろう。将来への「漠然とした不安」が、「明確な不安」になったとき、市民は権力者の思惑通り従順な子羊のままでいるのか、それとも怒りを為政者に向けるのか、予想はつかない。
いずれにしても、いまの「日本という国家」には、すべての市民・国民が主権者であるという意識があまりに希薄だ。敵を見誤らないようにしよう。虐げられた者は互いに抱擁し、怒りの視線を為政者に集めよう。(北村肇)