JRを「危険がいっぱい」にしたのは、「時間」の奴隷と化した効率化優先の大人たち
2006年1月20日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
「時間」が一様でないことは、50歳も超えれば肌身でわかる。小学生のころは、平日と休日の「長さ」の違うことが不思議で仕方なかった。社会人になってからは、「長~い時間」を短くする術を少しずつ修得した。だがこの国ではいま、「『時間』は、自分さえその気になれば自由にできるもの」ということを実感できない大人が多いようだ。「一日はだれにとっても同じ一日」と勘違いしている。言い方を変えれば、「時間」という主人に使われている奴隷である。
「効率化」とは結局、「時間」を一様にしてしまうことだ。「決まった時間に決まった仕事をこなす」ことだけが求められる。そこに意志や感情をもった「個性」は必要ない、むしろ邪魔ですらある、マニュアル通りにきちんとこなす「ロボット」こそ生産性を高める。そのような珍説がいまや堂々とまかり通っている。
今週号の特集で掲載した「JR現場労働者の実名告発座談会」を読み、かなり前、鉄道マンに聞いた話しを思い出した。「レールも生きている。いつ病気になるかはわからない。でもね、ハンマーでこつんと叩いたらわかるんだよ」。
うかつにも、こうした“プロの技術”は民営化後も脈々と受け継がれていると思っていた。だが現実には、レールの傷を調べる探傷車が、一年に一度走って確認するだけだという。いつのころからか安全確認は機械任せとなり、「こつんと叩く『時間』」は消されていたのである。
耐震設計偽装問題のとき、コンピュータソフトよりプロの経験と勘のほうがよほど信頼性があるという話しを専門家に聞いた。JRの車両やレールも、欠陥マンションと同様の危険性をはらんでいるのか。
「効率化」は結局、何をもたらしたのだろう。企業の利益優先、安全軽視、自由で個性的な発想の否定、組合抑圧。そして、それらが産んだ物言わぬ社員。
命じられるままに、「時間」内で任務を果たすことに神経をすり減らす大人。その背中を見ている子どもが「時間」にこき使われるのは当然であろう。「『時間』は強制的な枠として存在するわけではない。自分でつくり、自分で使う『時間』こそ本当の『時間』なのだ」。こうした真理を教わる肝心の「時間」すら、彼ら、彼女らには与えられていない。これもまた日本の危機の一つである。(北村肇)