編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

疑心暗鬼の雰囲気に覆われた現代。市民を“混乱”に陥れた真の犯人とは。

 週明けにメールボックスを開くとぞっとする。山積みの迷惑メール。しかも最近は手が込んでいて、うっかりファイルを開きそうになることもある。たとえば、「○○の告発」とかあれば、職業柄、反射的にクリックしたくなる。だが、さすがに手が止まる。ウィルスが入っていたら、どんな悲惨な目にあうかわからない。

 特に気をつけているのが英文メール。「訳す」というプロセスを経ると、「ウィルス対策のためにファイルを開けてください」などという文書に、つい反応してしまいそうになる。被害にあった人から「それこそ危険」と聞かされていなければ、私も被害者の一員になっていたかもしれない。ただ、あまりに疑心暗鬼になっての失敗もある。英文というだけでゴミ箱に捨てたら、実は重要なメールだったということが一度ではない。

 こうしたことはメールに限らず、郵便物でも、へたに開封すると、それだけで料金を取られる悪質なものがあるようだ。過日、「小さな政府・大きな格差」特集の案内を全国の自治体の職員組合に郵送した。関心をもっていただこうと思ったのだが、そのうち何通かが「受け取り拒否」で戻ってきた。羮にこり、書名の知らない雑誌は機械的に受け取りを拒否する組合があるらしい。

 子どものころ、よく「人を見たら泥棒と思え」と言われた。「まだ戦後の混乱期だったから」というのが、高度成長期を迎えた後、親に聞かされた解説だった。もっとも1950年代後半は多少、社会も落ち着き始めていたので、玄関を開けっ放しにしても、滅多に空き巣に入られることはなかった。盗もうったって盗む物がないという現実もあったが……。

 食べる物もなく、住むところもない。そんな状況では、誰もが自らの身を守るために疑心暗鬼になるのはやむをえない。きれいごとを言っている余裕はなかったろう。

 でも今は、大方の人は「とりあえず暮らしていける」状態にある。なのに「人を見たら泥棒と思え」といった雰囲気がじんわりと社会を覆いつつある。もちろん、現代の“混乱”をもたらした諸悪は、出会い系サイトや総会屋雑誌ではない。

 未だに「過激派らしき人間を見たら通報を」といった類のチラシが貼られている。ここのところ、「不良外国人」なる文言も目立つ。治安上の不安をあおることで、疑心暗鬼にとらわれた市民を「権力」に従わせる――古典的な手法だが、これが意外に効いてしまうのが怖い。ネット上のウィルスどころではない。(北村肇)

伏魔殿とも言われた外務省は、「ウソがウソでなくなる」世界の典型でもある

 ウソがウソでなくなる世界。所詮、そんなものと言ってしまえばそれまでだが、やはり納得のいかないのが「外交の空間」だ。金大中事件の外交文書が韓国で公開された。田中角栄首相(当時)は、国内向けに「徹底捜査」のポーズをとりながら、韓国側には「これでパー(終わり)にしよう」と伝えていたという。

 国内で白昼、行なわれた政治的拉致事件。それをいとも簡単にうやむやにし、しかもその事実を市民・国民に隠し通す外交とは一体、何なのか。言い分はあるのだろう。「国家間には複雑な“取引”がある」「国益のためにはやむをえない」。本当か。実は、「党益」「省益」「個人の利益」がからむのではないのか。

 本誌今週号の特集で掲載した「外務省不祥事一覧」は「表のデータ」だ。マスコミ発表されていない例は多いものの、少なくとも省内ではオープンになっている。国会議員も入手できる。いわば表面化した不祥事だが、その内容には唖然とした。

 地位を利用した公金横領、セクハラや万引きといったハレンチ罪だけではなく、海外での飲酒運転による事故が目立つ。外交特権を使って刑罰を逃れられるからという意識があるとしたら、言語道断だ。しかも、いずれも処分が甘すぎる。民間企業だったら免職もありうるような事案でも、せいぜい減給。意地悪い見方をすれば、「みんなやっていることだから」という雰囲気が、省内に漂っているのではないか。

 今回の不祥事一覧を「表のデータ」と表現したのは、「裏のデータ」もあるに違いないと思うからだ。そもそも、外交には機密がつきものである。ブラックボックスである限り、さまざまな意味での“隠蔽工作”は避けられない。そのことを全否定する気はない。しかし、「都合の悪いことは隠してしまえ」という単純な発想のもとに、個人的不祥事を闇に葬るのは、別次元の話である。

 かつて新聞記者時代、「霞ヶ関」の暗部を探る取材チームのキャップをした。その時の経験では、外務省は大蔵省(当時)とともに“最悪”の省庁だった。「臭い物に蓋」がまかり通ると高をくくった官僚が多かったのだ。

 むろん、「裏のデータ」は個人的な不祥事の隠蔽だけではない。金大中事件同様、市民・国民をだましている外交事項が相当あるように思える。そして言うまでもなく、ウソを「機密」に言いくるめるのもウソの典型だ。(北村肇)

アスベスト法でまたまた見えた、「ニッポン無責任野郎」の官僚たち

 植木等の「ニッポン無責任野郎」が上映されたのは1962年。本格的な経済復興に乗り、「サラリーマン」なる人種が激増したころだ。農業や漁業に従事していたら、仕事の面で人に責任を押しつけることはできない。商店主や家内工業的工場の従業員などもしかりだろう。それに比べれば会社員は確かに気楽だ。

 少しくらい失敗しても、同僚がカバーしてくれる。そのことで会社がつぶれることはない。手抜き、さぼりで首になることも滅多にない。上司に適当にゴマをすっていれば、意外にのんびりと過ごせる。まさしく「無責任」が許される「気楽な商売」。子ども心に、サラリーマンへの憧れが芽生えた。

「大人になったらどんな仕事をしたいか」と先生に聞かれ、「サラリーマン」と答える友だちも多かった。だが反面、「何事においても責任感を持たなければならない」という意識が結構、強くあった。そんな教訓めいたこと、だれに教わったのかは覚えていないが。

 高級官僚の幹部クラスは大体、私と同じ世代だろう。植木等の映画を観たり、歌を聴きながら、みごとに無責任な大人に育ったものだ。今国会で成立したアスベスト法など、責任回避の極みだ。補償法ではなく救済法だと、平然と言えるところが凄い。責任はすべて企業にある、国は関係ない。本当にそう思っているのなら、厚顔無恥という言葉でも追いつかない、唾棄すべき連中だ。

 実態は違うのだろう。厚生労働省、環境省、経済産業省、いずれの省庁の官僚も「国に問題あり」と知っているはずだ。でも、ある人は「とにかく本省の責任だけは回避しなくてはならない」と考え、ある人は「悪いのは当時の先輩であり、自分には責任がない」と居直る。

 今回の件は直接、取材していないので、上記のようなことは推測にすぎない。しかし、かつてさまざまな官僚を取材した経験からして、大きく外れてはいないと思う。あえて言うまでもないが、こちらも唾棄すべき連中だ。

 官僚がサラリーマン化したと言われる。が、実態はもっとひどい。自己保身と自分の利益を最優先にする輩がごろごろいる。だから常に、責任回避に汲々とする。そうやって逃れているうちに、関係のないポストに移ればいいと考えている。目の前の嵐さえ過ぎれば「そのうちなんとかなるだろう」ってか。 (北村肇)

「幸せ」を買うには技術がいる。マネーゲームの勝者に、このことが理解できるか。

「カネでは買えないものがある」という。では「カネで買えるもの」とはなんだろう。コメ、豚肉、下着、靴。それから億ション、自家用飛行機、高級ワイン。確かにカネさえあれば、こうした商品は何でも購入できる。次の問い。「何のために」買うのか。命の維持。これはわかる。でも高級ワインや億ションは違う。なくたって生きていける。

 嗜好や趣味の世界で、きままにカネを使えるぜいたく。一見、うらやましい。だが突き詰めれば、「買う」のは結局、「幸せ」だろう。であれば、高級ワインを嗜む「幸せ」と、発泡酒や焼酎を飲む「幸せ」が等価なら、わたしはお金持ちに嫉妬しない。むしろ発泡酒で「幸せ」になれる自分に納得する。

「幸せ」を手に入れるには技術がいる。たとえば「今日は昨日よりつまらなかった」と嘆くより、「今日は一昨日より楽しかった」と思うほうが「幸せ」だ。まずいラーメン屋で一緒に食べても、「こんな店に入らなければ良かった」といつまでも愚図愚図言う人間と、「おいしくはなかったけど、安かったから満足」と微笑む人間もいる。後者の人は、「幸せ」を感じとる術に長けているのだ。

 ライブドアの堀江貴文社長は、昨年の総選挙で民主党に立候補を勧められた際、「『国民はバカだから』と五回繰り返した」と報道されている。「だから関係を絶った」かのような民主党の態度には鼻白むが、堀江社長の一断面をよく表しているエピソードだ。

 マネーゲームの世界では、「頭のいい人間」が勝ち組になる。法の抜け道だろうがなんだろうが、利用できるものはすべて利用する知恵があってこそ、常勝の道を歩める。そう考えているIT長者からすれば、自分たちのようになれない連中は「バカ」なのだろう。

 時代を先取りし、旧弊を打ち破り、自らのスタイルで企業経営に邁進する。そんな若者が批判されるいわれはない。地位を脅かされ、価値観を危うくされた年寄りの陰謀だ――。身の回りでも、怒りに燃えた声を聞く。そのような面のあることは否定しない。だが「ホリエモンを目指す」ことには賛同しかねる。人をバカ呼ばわりしていては、「幸せ」をたぐり寄せることができないからだ。ヒルズに住まなくても幸せでいられる「バカ」の存在を知らずに、人の上に立つべきではないからだ。

 先述した技術はどこにも売っていない。つまるところ、心豊かでなければ「幸せ」は買えないのだ。マネーゲームで得られるのはほとんど「幻想」でしかない。  (北村肇)