編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

幸せパズルには、あらかじめ埋め込まれているピースがある。健康、親、そして憲法。

 親を亡くして見えたことがある。「幸せはジグソーパズル」もその一つ。何事につけても、一個一個ピースを埋め、完成したときに達成感と幸福感を感じる。だが普段は気づかないからくりが「人生のパズル」にはある。実は、幸せを形つくるいくつかのピースは、あらかじめ決められた場所に埋め込まれているのだ。

「健康」と「親」もそう。どちらも日々、意識することは少ない。だが失ったとき、初めて欠落感の大きさに驚く。埋まっていたはずのピースが陽炎のように実体がなくなっていた現実に向かい合い、呆然とする。

 幸せを得るためにピースをせっせとはめ込んでみたところで、「健康」がなくなってしまっては、パズルは完成のしようがない。幸福感を、「この世に生命を授けてくれた人」に感謝の意をもって報告できなければ、やはり不完全燃焼である。

「健康」は回復の可能性がある。だが、「親」は帰らない。幸せのパズルを成し遂げるためには、その跡地に何かをはめこむところから始めるしかない。

 このことに気づいたとき、パズルの達成をたやすくする仕掛けは、人間の英知によってもつくられていると実感する。たとえば「日本国憲法」。

 人はだれでも、思いのまま幸せを希求する権利をもっている。しかし人類の歴史の中では、さまざまな権力が、個人の自由や権利を侵害し蹂躙してきた。だから常にそれらを獲得するための「闘争」を余儀なくされてきた。

 今の日本では、曲がりなりにも、基本的人権は憲法が担保してくれる。これが、幸せのパズルつくりに極めて大きな意味をもつことは、あえて言うまでもない。逆に、失われたときはどうなるのか。想像するだにぞっとする。

 本誌はおかげさまで今週号が600号。記念号の特集は「憲法」にした。一部の政治家や財界人、言論人などが「憲法改悪」にひた走る。彼ら、彼女らは、「主権在民」から「主権在国」へと日本を転換させる、まさに「保守革命」に邁進しているようだ。幸せを臣民に与えるのは国家の役割。非国民には幸せを求める資格はない――。

 自分の幸せパズルは自分でつくりあげたい。だから憲法改悪は許さない。(北村肇)