「日の丸・君が代」に断固、抵抗する教師をなぜ、組合はしっかり守らないのか
2006年4月21日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
南海の孤島で、臓腑のすべてを動員して叫びたくなることがある。存在を賭けた闘いなど、字にするのは簡単だが、現実にはそうそうありえない。相手が強ければ尚更だ。だから、引かれ者の小唄よろしく、誰にも聞こえない状況のもとで、繰り言を大声で外に発したい。卑小な自分に嫌悪感を抱く瞬間でもある。
そんな小者がこの世界で生きてこられたのは、労働組合のおかげだ。社会や組織の不正義に立ち向かうには、想像を超えるエネルギーがいる。時に、恐怖感とも向き合わなくてはならない。だが、そこに仲間がいれば、乗り越えられる。「裏切らない、裏切られない」関係の存在する、たとえようのない安心感。
組合には目もくれない若者をたくさんオルグしてきた。成果はあまりない。それでも時折、彼ら、彼女らの琴線に触れることがあるらしい。
「いまは若いから、何も怖いものはないかもしれない。仮に会社をクビになっても、バイト口くらいはあるだろうし、なんとか暮らして行けるだろうから。でも、たとえば明日、交通事故に遭って大きなケガをしたらどうだろう。だれが助けてくれるのか。果たして会社が救ってくれるだろうか」
「組合って、家族や恋人みたいなもの。いざという時は、病室にかけつけ、どんなことがあってもあなたを見守り、助ける」
不当解雇され、闘った経験のある労働者は、他の争議にも積極的にかかわる。「瀕死の重体」となったとき、ベッドにかけつけてくれる仲間のありがたみを知っているからだ。
卒業、入学式シーズンが終わった。今年もまた、一人で闘いに挑んだ教師たちがいる。良心の自由を守るという、ごく当たり前の主張が押さえつけられ、潰されていく。それに反発し、敢然と立ち上がる教師はしかし、孤独を強いられる。
大いなる疑問が浮かぶ。労働組合は何をしているのか。なぜ組合をあげて闘わないのか。「君が代」斉唱のとき、組合員は全員、着席すべきだ。どうして、確固として主義を曲げず、免職の恐怖を腹に押し込みながら座り続ける教師をしっかりと守らないのか。
闘争なき、連帯なき組合に未来はない。 (北村肇)