「国家を愛せ」といきり立つ国会議員や官僚は、「真の故郷」を感得できないのだろう
2006年5月26日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
白人に侵略された北米先住民が最も嘆き悲しんだのは、祖先や子孫とつながる土地が失われたことだという。そこから強制移住させられれば、“たったひとり”になってしまう。帰るべき場所のない喪失感。
私には故郷がない。戦火で家土地をなくし、最後に辿り着いた下町で祖父母が買った二間の家。中学卒業までここで過ごしたが、すでに人手にわたり30年余。たまたま近くで取材のあった折り、訪ねてみた。20年以上昔のことである。狭い土地に二階建ての建て売りが2棟建っていた。どぶ板横町と呼ばれた面影はなかった。その後、かろうじて故郷的臭いのするこの地を訪れたことはない。
それでも時折、子どものころ遊んだ神社や小川を思い出す。カレーの具にしたザリガニの味が蘇えったりする。ふとしたことで地名を聞くとなつかしくもある。
お世辞にも環境はよくなかった。いまでも、「あのあたりは貧しくてヤクザもたくさんいる」などとくさされることが多い。そんなときは、つい「人情に厚いのさ。背中に入れ墨があったって、在日の人だって、だれのことも差別しない土地柄だ」と反論したりする。結構、思い入れがある自分に気づく。
生まれた土地は、祖先だけではなく子孫にもつながる。それは、単なる物理的空間ではない。ありきたりな表現だが、抽象的な「心」の世界だ。自然に愛着がわき、一方で、一刻も早く逃れたいほどの憎しみがあり、そして結局は切っても切れない、遺伝子のつながった「場所」。
そこは当然、人為的につくられた「組織」とは無縁な世界だ。たとえば、「国家」という概念がなくなったとしても、故郷は故郷として存続し続ける。
理論的でないことは承知しつつ、「国を愛せ」と迫る国家という「組織」に、侵略者のイメージがだぶる。心に踏み込み、心を踏みにじり、仮想の故郷をつくる。
教育基本法改悪に走る国会議員や官僚には、おそらく真の意味での故郷がないのだろう。無条件に自分を受け入れてくれる、祖先とも子孫とも精神的につながった場所。もし、そのような世界を感得できていたなら、過去の歴史からみて「統治機構を含む」と解釈されうる教基法改悪案など、思いつくはずもない。(北村肇)