医療制度“改革”の本質は「姥捨て山」だ
2006年7月28日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
「福祉切り捨て」なんてものではない。今の政府が行なっている、あるいは計画しているのは「姥捨て山」だ。
約20年前のこと。厚生省(当時)は「寝たきり老人ゼロ」を”国家目標”として打ち出した。同省の担当記者だった私は、高齢化社会を前に当然と受け止めた。だが、それは甘かった。
「年寄りは普段は元気で、ある日、ころっと死んでもらうのがいい。そうすりゃあ、医療費削減につながる」。普段から酷薄な感じで気に入らなかった幹部が、しらっともらした。腹の中でつぶやいた。「いやあ、うかつでしたよ。てっきり国は高齢者のことを真剣に考えているのかと思っていた。目的はカネですか」。
その場で、怒鳴るべきだった。そして、この幹部を辞職に追い込むまで、徹底的なキャンペーンをすべきだった。どちらもできなかったのだから、ジャーナリストとしては失格だ。
同じころ、脳死や心臓移植の是非論が盛んに戦わされた。推進する厚生省に対し、私の所属していた毎日新聞は、批判の立場で記事を書き続けた。理由の一つは、これらの目的も「カネ」だったからだ。「脳死を死と認めれば、臓器移植が格段にやりやすくなる。特に腎臓移植が重要だ。透析にかかる医療費は膨大だから」。これは、先述とは別の幹部の発言である。
それでも、「寝たきりゼロ」や臓器移植技術の向上は、結果としてプラスをもたらす面もある。また厚生省の現場職員の中には、心底、市民の健康を考え、これらの施策に取り組んでいる人もいた。
だが、いま進められている、高齢者の医療費アップなどは何らの恩恵もない。「国家財政のため」がすべてであり、そこに「高齢者のため」という意識は皆無だ。
結局のところ、医療制度“改革”は、働けない高齢者は用無しだと、国がお墨付きを与えるようなものである。そのくせ、八月になると「先の戦争で亡くなった方々がもたらしてくれた平和」などという、薄っぺらな文言が飛び交う。国民とは所詮、一時の働き蜂とでも思っているのか。そんな官僚や政治家につける薬はない。(北村肇)