編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

医療制度“改革”の本質は「姥捨て山」だ

「福祉切り捨て」なんてものではない。今の政府が行なっている、あるいは計画しているのは「姥捨て山」だ。
 
 約20年前のこと。厚生省(当時)は「寝たきり老人ゼロ」を”国家目標”として打ち出した。同省の担当記者だった私は、高齢化社会を前に当然と受け止めた。だが、それは甘かった。

「年寄りは普段は元気で、ある日、ころっと死んでもらうのがいい。そうすりゃあ、医療費削減につながる」。普段から酷薄な感じで気に入らなかった幹部が、しらっともらした。腹の中でつぶやいた。「いやあ、うかつでしたよ。てっきり国は高齢者のことを真剣に考えているのかと思っていた。目的はカネですか」。

 その場で、怒鳴るべきだった。そして、この幹部を辞職に追い込むまで、徹底的なキャンペーンをすべきだった。どちらもできなかったのだから、ジャーナリストとしては失格だ。

 同じころ、脳死や心臓移植の是非論が盛んに戦わされた。推進する厚生省に対し、私の所属していた毎日新聞は、批判の立場で記事を書き続けた。理由の一つは、これらの目的も「カネ」だったからだ。「脳死を死と認めれば、臓器移植が格段にやりやすくなる。特に腎臓移植が重要だ。透析にかかる医療費は膨大だから」。これは、先述とは別の幹部の発言である。

 それでも、「寝たきりゼロ」や臓器移植技術の向上は、結果としてプラスをもたらす面もある。また厚生省の現場職員の中には、心底、市民の健康を考え、これらの施策に取り組んでいる人もいた。

 だが、いま進められている、高齢者の医療費アップなどは何らの恩恵もない。「国家財政のため」がすべてであり、そこに「高齢者のため」という意識は皆無だ。 

 結局のところ、医療制度“改革”は、働けない高齢者は用無しだと、国がお墨付きを与えるようなものである。そのくせ、八月になると「先の戦争で亡くなった方々がもたらしてくれた平和」などという、薄っぺらな文言が飛び交う。国民とは所詮、一時の働き蜂とでも思っているのか。そんな官僚や政治家につける薬はない。(北村肇)

ボロもうけの銀行、個人蓄財に精を出す日銀総裁。いい加減にしろ!だ

「戦後の平和というのは、実は経済戦争によってかき集められたお金で買われていたものだと思います。また、戦争である以上は犠牲者が出ます。一番弱い者は子どもです。だから今の子どもたちは戦災孤児なのですよ」。何度読んでも、大林宣彦さんの文章(本誌615号「わたしと憲法37」)に肯いてしまう。

 貧乏がつらいと心底、思ったことがある。小学生のころ、内蔵の手術をしたばかりの母親が、またすぐに倒れ、二度目の手術ということになった。だが、家にはもう入院費がない。食べるのが精一杯の時代だった。

 当時、私は1日10円の小遣いやお年玉をほとんど使わず、郵便局に貯めていた。それを貸してくれないかと言った母親の表情が忘れられない。貯金は惜しくなかった。別に買いたいものがあったわけではない。子どもに、そんなことを頼まなくてはならない親が、不憫だったのだ。

 似たような経験は、多くの人がもっているはずだ。「世界第2位のカネ持ち国」などと称されるのは、はるか時代が下ってのことである。エコノミックアニマルと揶揄されながら、国家も個人も、ひたすら働き、蓄財にいそしんだ。

 バブル期には、かつてのうっぷんをはらすかのごとく、高級品に大枚を注ぎ込む団塊の世代が目立った。子どもたちに贅沢させることを自らの喜びとする親も多かった。

 戦後の混乱期に生まれ、あるいは幼少時代を送った貧乏経験者なら誰でも、「カネ」のありがたみも、魔力も、知っているはずである。だが問題は、「知った」うえで、どちらに進むのかだ。拝金主義者に陥るのか、カネより大切なものがあることを、子どもの世代に伝えられるのか。

 ボロもうけの大銀行、利殖に走った日銀総裁。本誌今週号の特集だ。「何千億」「何兆円」という単位になると、実感がわかない。市民は、「何千円」「何万円」の世界で日々、暮らしている。だから、「公的資金導入」などというお題目で国が銀行を救ったときも、その後、銀行がバブル期以上に利益を上げたと聞かされたときも、さしたる実感はなかったかもしれない。だが、状況は違っている。金融機関ばかりか、通貨の番人までもが、ここまでカネの亡者になり、しかも、明確な反省の色がないとは――。絶望感に襲われるばかりだ。
(北村肇)

北朝鮮のミサイル発射実験は、結果的に、軍事同盟強化を図る日米政府を利する

「北朝鮮ミサイル発射」を報じるニュースが、ワールドカップで絶叫するアナウンサーの声と重なり合った。神輿のまわりで「ワッショイ、ワッショイ」とはやしたてる声にも通じる。煽ることで昇華する祭りと、努めて冷静に情報分析する外交とは次元が異なる。だが、マスコミにはその違いがわからないようだ。

 5日夕刊、ほとんどの新聞は「北朝鮮ミサイル発射」の大見出しを立てた。ことの重大性からいって、派手な扱いになるのは当然だ。問題は表現の仕方である。

 毎日新聞の「北朝鮮ミサイル6発」が目を引いた。他紙と違い、「発射」という言葉を使っていなかったからだ。取材してはいないので、実態はわからない。だが、同紙に30年近く在籍していた経験から推測するに、おそらく、編集部の中で「発射」を見出しにすることに抵抗感があったのだろう。

 そもそも、どう考えても今回は「発射実験」であり、第一報で「実験」をつけない表現は真実を伝えていない。「日本海に向けミサイル発射」とあれば、「日本の領土に撃ち込まれた」かのような印象を与える。事態を客観的にとらえれば、5日夕刊段階の見出しで「発射」は使うべきではない。その一点において、「毎日」の姿勢を評価したのだ。

 読者から「米国の主要紙は“テスト”と書いたのに、日本のメディアは“発射”と報じる。何か意図があるのか」と質問された。ニューヨークタイムズ紙は5日の社説で「ミサイル実験は直接的な脅威ではなく、国際法にも違反していない」と記している。日本の全国紙とは大きな落差を感じざるをえない。

 マスメディアに何らかの意図があったのかどうかはわからない。ただ、少なくとも、危機感を強調した「国家」には、一定の方向に国民をもっていこうという意識があったのだろう。そして新聞、テレビはそこに乗せられた。

 北朝鮮はいかなる戦略で発射実験を強行したのか、現時点で確証は得られない。しかしその理由を問わず、怒りを禁じ得ない。むろん、小泉首相や安倍官房長官らがはやしたてるような危機意識からではない。憲法改悪、米軍再編問題、共謀罪に象徴される監視国家……日本はいま、歴史的ともいえる「真の危機」に瀕している。このときに、ミサイル発射実験に踏み切ることは、「北朝鮮の脅威」をあおり、軍事力を強化する日米政府の思惑にまんまと乗ってしまうという危惧をもつからだ。(北村肇)

人を殺してはいけないことに理由などない。「だめだからだめ」なのだ

「なぜ人を殺してはいけないのか」が、難問のように取り上げられる。そのこと自体に違和感がある。「だめだからだめ」なのだ。ほかに言いようがない。「なぜ人はこの世に生まれ、生きているのか」。この問いにも正答はない。いかなる科学者でも哲学者でも、証拠をもって説明することなどできない。

 それでも私たちは生きている。そして「人を殺すのはよくない」と思っている。そこに理屈はないし必要もない。「だめだからだめ」なのだ。

 個人が私的理由で殺すのも、国家が大義名分に基づき、戦争という状況で”敵”を殺すのも、すべて同様。例外はない。死刑制度も当然、認められるものではない。

 死刑により再犯の防止を図ると言われる。だが、実際にそのような効果があったという客観的データを知らない。勉強不足にすぎないのかもしれないが、欧米で「死刑は過去のもの」になっている現実をみても、「効果」は疑わしい。

 それでも、日本では死刑許容の雰囲気が強まっている。なぜ、世界の流れに逆行するのか。高まる不安を抑えるため、「危険なものは駆除する」という風が吹いている気がする。

“理由なき殺人”が続いた。「人を殺してみたかった」と自供した若者がいたとされる。本当に「理由はないのか」、単に「殺してみたかった」が動機なのか、実は解明されていない。「得体の知れない犯罪者は駆逐しろ」。そんなムードだけが漂う。

 あわせて強まっているのが、「殺人鬼をかばう者も同罪」との風だ。光市母子殺人事件では、被告の弁護に立った安田好弘弁護士への異常なバッシングが続いた。本誌でも取り上げた通り、問題になった安田弁護士の「公判欠席」には、当該の弁護士としてしかるべき理由があり、なおかつ手続きもきちんと踏んでいる。一方で、「検察側も死刑判決は難しいと考えていた。世論が後押しした」との報道がされていた。司法が情緒に流されたとしたら、大いなる禍根を残したと言えるだろう。

 死刑反対論に対しては、「被害者の人権はどうなる」という疑問が返ってくる。だが死刑によって被害者の人権は回復するのだろうか。重要なのは、加害者に罪の重さを心の底から認識させることではないのか。正直、気分の中には「それはきれいごと」との思いが微妙にある。だがやはり、「だめだからだめ」なのだ。(北村肇)