編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

北朝鮮のミサイル発射実験は、結果的に、軍事同盟強化を図る日米政府を利する

「北朝鮮ミサイル発射」を報じるニュースが、ワールドカップで絶叫するアナウンサーの声と重なり合った。神輿のまわりで「ワッショイ、ワッショイ」とはやしたてる声にも通じる。煽ることで昇華する祭りと、努めて冷静に情報分析する外交とは次元が異なる。だが、マスコミにはその違いがわからないようだ。

 5日夕刊、ほとんどの新聞は「北朝鮮ミサイル発射」の大見出しを立てた。ことの重大性からいって、派手な扱いになるのは当然だ。問題は表現の仕方である。

 毎日新聞の「北朝鮮ミサイル6発」が目を引いた。他紙と違い、「発射」という言葉を使っていなかったからだ。取材してはいないので、実態はわからない。だが、同紙に30年近く在籍していた経験から推測するに、おそらく、編集部の中で「発射」を見出しにすることに抵抗感があったのだろう。

 そもそも、どう考えても今回は「発射実験」であり、第一報で「実験」をつけない表現は真実を伝えていない。「日本海に向けミサイル発射」とあれば、「日本の領土に撃ち込まれた」かのような印象を与える。事態を客観的にとらえれば、5日夕刊段階の見出しで「発射」は使うべきではない。その一点において、「毎日」の姿勢を評価したのだ。

 読者から「米国の主要紙は“テスト”と書いたのに、日本のメディアは“発射”と報じる。何か意図があるのか」と質問された。ニューヨークタイムズ紙は5日の社説で「ミサイル実験は直接的な脅威ではなく、国際法にも違反していない」と記している。日本の全国紙とは大きな落差を感じざるをえない。

 マスメディアに何らかの意図があったのかどうかはわからない。ただ、少なくとも、危機感を強調した「国家」には、一定の方向に国民をもっていこうという意識があったのだろう。そして新聞、テレビはそこに乗せられた。

 北朝鮮はいかなる戦略で発射実験を強行したのか、現時点で確証は得られない。しかしその理由を問わず、怒りを禁じ得ない。むろん、小泉首相や安倍官房長官らがはやしたてるような危機意識からではない。憲法改悪、米軍再編問題、共謀罪に象徴される監視国家……日本はいま、歴史的ともいえる「真の危機」に瀕している。このときに、ミサイル発射実験に踏み切ることは、「北朝鮮の脅威」をあおり、軍事力を強化する日米政府の思惑にまんまと乗ってしまうという危惧をもつからだ。(北村肇)