編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

新聞を愛するが故に、イライラの毎日

 新聞中毒だと思う。休刊日はイライラする。大学の講座で、「自宅でとっていない」学生が大半と知り、つい「ネット時代でも新聞は欠かせない」と熱弁する。こうなると偏愛者か。だが、何事も愛憎半ば。別の意味で新聞にイライラすることが続く。一つは私の古巣『毎日新聞』の「取材テープ漏洩」問題だ。

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 先週号でも触れたが、ことの発端は、東京・南青山の地上げをめぐる事件に関する記事。『毎日新聞』は外資系企業から名誉毀損と訴えられたが、その後和解した。この過程で、取材・執筆した社会部記者の取材テープが流出、内容がネットに流れた。国会で同案件を追及したのが原因で関係者から脅迫された、国民新党・糸川正晃衆議院議員へのインタビューだった。本誌もこのテープは入手していた。

 過日、『毎日新聞』が当該記者を諭旨解雇にしたと知り、言葉を失った。どこにそれほどの「罪」があるのか。確かに、取材テープを第三者に渡したのは記者倫理に反する。だが、取材先は国会議員である。極論すれば、「漏れる覚悟」をもたざるをえない立場だ。そもそも、テープ流出によって読者も市民も傷つけていない。さらに言えば、社会正義を目的にした取材過程で起きたことである。

 もう一点、怒りを禁じ得ないのは、「データを流した相手が元暴力団組長であること」「テープが特定の個人・組織を利することに使われた可能性のあること」が重い処分に無関係ではないと聞いたことだ。

 社会部記者時代、私が最も重視していたネタもとはいわゆる「ブラック」だった。国会議員のスキャンダルなどは、ヤクザや総会屋に集まる。こうした情報源をもたない社会部記者は失格と言われた。そして、たとえば政治家のスキャンダルを書けば、別の政治家を利することもある。これらを避けていたら、権力犯罪など追及しようがないではないか。

「権力を監視・批判する」というジャーナリストの責務を果たすためには、時として危ない橋も渡らなくてはならない。事なかれ主義で闘える仕事ではないはずだ。

 一方で、こちらは申し開きのできない不祥事が、今週号で追及第5弾の、裁判員制度をめぐる広告問題。全国の地方紙が、電通と共同通信の仕掛けで記事を装った広告を掲載した。同制度には大いに問題があり、メディアにとっては批判対象のはずである。なのに「金で魂を売った」のだ。関係者は全員、懲戒解雇が妥当だろう。(北村肇)

「お江戸の顔」には真の「大人」がふさわしい

都の職員は右手の親指を立て、独り言のように呟いた。「その日の気分しだいだから」。当時、『毎日新聞』は、あるシンポジウムに石原慎太郎知事の出席を依頼していた。社長室委員として窓口になっていた私は、再三、確認を求めたが、どうも担当部局の態度が煮え切らない。執拗に迫ると、返ってきたのが冒頭の言葉だった。
 
 中年職員の表情が訴えていた。
 「トップは気まぐれでどうしようもない。われわれの言うことなんてきかないし。わかってくださいよ」。
 
 シンポジウム開催は私の退職後だった。結果は「ドタキャンだった」と、一緒に動いていたシンクタンクの関係者から聞いた。『サンデー毎日』で石原知事批判を展開したのがお気に召さなかったこともあったのだろう。
 
 石原知事を評価する都職員に出会ったことがない。組合関係者の知り合いが多いので、割り引いて考えなくてはならないが、それにしても「専横だ」との批判は相当に激しい。リーダーシップはトップに必要な資質だ。だが「裸の王様」になっては元も子もない。批判を受け入れてはじめて、リーダーとしての重みが生まれる。
 
 都知事選が告示された。何とも不思議な知事選だ。「石原知事でなければ誰でもいい」という声が届いてくる。古くは、美濃部知事が初当選を果たしたときは、「反自民」が有権者の底流にあった。青島知事が下馬評を覆して圧勝したのは、「反政党」の票がどっと流れたからだ。宮崎でそのまんま東知事が誕生したのも、「無党派」の勝利だった。

 それらに比べ、今回は様相が異なる。民主党支持者からも、「浅野氏支持ではないが、石原氏はノー」との本音が漏れる。市民運動に携わる人々の間でも、「『日の丸・君が代』は好き」という浅野氏に違和感を抱く人が多い。それでも「石原氏よりは」となるのだ。

 知事に就任以来、石原氏の支持率は一貫して高かった。さまざまなスキャンダルに見舞われながら、いまだに高水準を維持している。だが、「反石原」のうねりが相当に勢いを増しているのも確かなようだ。

 江戸っ子の嫌いなのは、「権威を盾に威張りくさる侍」と相場は決まっている。「お江戸の顔」には真の「大人」がふさわしい。(北村肇)

「日の丸・君が代」押しつけ卒業式に負けたら、戦争というウイルスが増殖する

「戦前も日常は平穏だったのだろう」とジャーナリストの原寿雄さんは言う。ウイルスによっては、発症するまでの潜伏期間が10年を越える。「戦争」というウイルスはどうか、と考えることが増えた。感染しているのは間違いない。普段の生活に支障をきたすほどには症状が現れていないだけだ。平温に潜む増殖の気配。

 今年もまた卒業式・入学式の季節になった。「国旗・国歌法」成立から8年、当初から「強制しない」という政府答弁は信用していなかった。それでも、各教育委員会がここまで露骨に、かつ土足で思想信条の自由を踏みにじるとは思っていなかった。石原慎太郎という、ねじ曲がった国家主義者が都知事になった影響は大きい。

 また、石原氏と同根のタカ派である安倍晋三氏が首相に就任、「何が何でも教育基本法の改正」としゃかりきになった。マスコミは、愛国心の問題に触れた程度で、改正の危険性を鋭く指摘せず、国会では野党の徹底抗戦もないまま、「平穏」をかき乱すことなく歴史的な悪法は成立した。

 改悪された教育基本法を改めて読み直し、悪寒が走る。第2条の「教育の方針」は「教育の目標」に変えられた。そこに「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」が掲げられた。「目標」だから、教師も児童・生徒も従わなくてはならない。かくして「日の丸・君が代」の強制が合法となる。

 さらに、「目標」には「評価」が伴う。愛国心のランク付けだ。おそらくは、ほとんどの小中学校で通知書に「愛国心」の項目が付け加わるだろう。評価の低い児童・生徒がたくさん出れば、その担任は「教師失格」の烙印を押される。新たにつくられる「免許更新制」により、教育の場から排除されるのは間違いない。

 1952年生まれの私は、民主主義教育のまっただ中にいた。学校では「第2次世界大戦で、日本はアジアの国々に対してどんなひどいことをしたか」を教わり、家庭では生々しい戦争の体験談をいやというほど聞かされた。これに対し、朝礼で「日の丸」に頭を下げ、「君が代」を歌わされる。しかも、そのことを評価される。こんな教育を受ける子どもたちにどんな愛国心が芽生えるのか、想像するだけでおぞましい。

 しかし、人間には免疫力も知恵もある。ウイルスにうち勝てばいいのだ。今年の卒業式でも闘う教師の姿があった。(北村肇)

警察の闇は暴く。だが、正義感ある現場のお巡りさんとは連携したい

警視庁に勤めていた叔父は、なかなか警部に昇進できなかった。捜査一筋。事件に追われて勉強する時間がなかったからだ。自殺を図った女性を助けようとして電車にはねられた警察官は、巡査部長だった。いわゆる”エリート”ではない。出世より街のお巡りさんの仕事に誇りをもっていたのかもしれない。

 事件取材に奔走していたころ、捜査員から何度も同じ愚痴を聞かされた。
「みんなあまり知らないだろうけど、警部になるための試験は難しいんだよ。捜査一課(殺人、放火など凶悪犯罪の捜査担当)なんかにいたら、なかなか勉強ができないから、苦労するよ。公安でデスクワークしている同僚は、参考書を読む時間もあってうらやましい。とにかく警部にならなくては、勲章ももらえないしなあ…」

 どうやら、警部補と警部では雲泥の差があるようだ。だが、汗水流して捜査に邁進していると、警部になるための勉強時間がとれない。そんな矛盾があるのだろう。もちろん、国家公務員の「上級職」試験に合格、警察庁に配属となり、若くして幹部になる超エリートには無縁のことだ。

 警察の不祥事や弾圧事件を特集する「警察の闇」は7回目を迎えた。「裏金」から始めたが、他にも取り上げるべき問題が次々と起こり、読者からの情報提供や激励も後を絶たない。親切で正義感があり、体を張って市民を守るお巡りさんと、税金を懐に入れたり、思想弾圧に手を染める警察官。特集のたびに、この落差は何だろうと考えてしまう。
 
 メディアの社会にも似たような状況はある。「権力批判」にすべてを賭け、寝るのも惜しみ取材し続ける記者。保身に走り、政治権力や広告主の顔色をうかがうことに汲々とする経営陣。30年の体験から言えば、およそ実力のないジャーナリストが、なぜかトントンと出世したりする。

 部長以上になると、それこそ実力は関係ない。上司の覚えが目でたいかどうかが、最も重要なポイントになるのだ。生涯一記者を目指す、尊敬すべきジャーナリストが役員になったことはついぞない。

 警察も新聞も、一方的に批判対象とする気はない。正義感とはかけ離れた連中のいる一方で、誠心誠意がんばっている人々がいる。心ある現場の人たちと連携したい。指弾は期待の裏返しでもあるのだ。 (北村肇)

法による国民投票法のCM規制は認められない。極めて当然のことだ。

譲れないことがある。譲るべきでないことがある。国民投票法に関し、CMの規制をどうするか、論議になっている。法規制だけは認められない。断固としてこの点は譲れない。理由は単純。報道は、あらゆる「権力」から自由でなくてはならない。でなければ民主主義は機能しない。かりに、現時点のマスコミが信用ならなくてもだ。

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