「日の丸・君が代」強制に負けず、春を春らしく感じたい
2009年3月27日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
空気は何でできているのかと考える。酸素と窒素に水素、そんな科学的なことではない。地球に存在するすべての命が醸し出す「何か」、その「何か」の融合体が空気の本質のような気がする。ふと春を感じたとき、空気の中に何があるのか、心の目で見つめるとわかる。植物の歓喜の歌、子どもたちの好奇心の歌。
それらが、賑やかで猥雑な旅立ちの季節をつくりだす。とりわけ子どもたちが発する「何か」は、無数の原色の花が思い思いに乱舞しているようで、その凄まじいエネルギーがこちらの体内にも浸透してくる。単なる喜びだけではない。親しい友人と別れる寂しさ、新しい世界への不安もある。そして、すべてをひっくるめての高揚感。
春の訪れが人をワクワクさせるのは、こうした子どもたちの「何か」が大きく寄与しているのだろう。しかし、いつの時代にも愚かな人間はいる。せっかくの空気を人為的に乱し、暗く暗澹とした季節に変える輩はしかも、教育に携わる者たちだ。卒業式、入学式を迎えると、特高警察のような目つきで学校を監視、歓喜の歌も好奇心の歌もせっせとつぶして回る。
今週号をはじめ、幾度となく本誌で取り上げた「闘う教員」根津公子さん。彼女たちの運動を描いたビデオを観て、石原都政のもと、「日の丸・君が代」を強制する東京都の職員がゾンビに見えた。このことはかつて本誌でも書いた。実は、その際、自分でボツにした一文がある。「不謹慎だが、つい笑ってしまった」がそれだ。
笑った理由は「春の季節にゾンビはあまりにも似つかわしくなかったから」である。ただ、すべてを賭けて闘っている根津さんたちの様子を見ながら、「笑ってしまった」は誤解を生むかもしれないと躊躇した。とともに、ゾンビをつくった“真犯人”は別にいるわけで、末端の職員だけを批判するのはまずいという思いもあった。
根津さんを受け入れない日教組の人々にもまた、残念ながら、温かい血を感じられない。「支援グループにセクトの人間がいる」と話す組合員もいた。大きな闘いを阻んできた、「この一点が許せない」という論理はいつになったら消え去るのか。
ゾンビが「命」を取り戻し、一方で、心ある人たちの闘いの輪が広がれば、石原都政をつぶすことは可能だし、子どもたちにとっても、現場教員にとっても、当然、私たちすべてにとっても、春は、もっと春らしくなるのに。(北村肇)