編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「公安警察」膨張の先にあるもの

 何かと話題になった今年の三社祭(東京・浅草寺)。マスコミ風にいえば「大きな混乱もなく終わった」。ところで「大きな混乱」とは何だろう。私も三社祭を取材したことがある。記者としては、たとえば「あちらこちらで殴り合いが起きる」事態を予想し、期待する。そのほうが、大変だけどネタになってありがたいからだ。

 大した騒ぎがなければ、記者はむりやり記事をつくるしかない。ある新聞にはこう書かれていた。

「……入れ墨の男たちの殴り合いが始まり、大事になる寸前、周囲が必死に引きはがす」

 おそらく、こぜりあいにすぎなかったのだろう。「大事になる寸前」とは記者が勝手に判断しただけで、こうした推測の表現は出来る限り避けなくてはならない。さらに気になったのは、「入れ墨」を強調していること。暗に「ヤクザかテキヤのケンカ」を示しているが、私がデスクならこの部分はボツだ。「入れ墨=ヤクザ=治安の悪化=市民の敵」という安直な発想を、ジャーナリストはとるべきではない。
 
 そもそも祭にケンカはつきものだ。死傷者が出ても構わないなどという気は、もちろんない。だが、多少の血が流れるのは仕方ない。組織暴力団がカネのために祭を仕切るのは許せないが、ヤクザだからといって締め出すのもおかしい。大体、入れ墨はヤクザの専売特許でもない。入れ墨=市民の敵といった構図は単純すぎる。
 
 三社祭の報道をみながら、最近の公安警察の膨張ぶりを考えた。本誌今週号で特集したように限度を越える肥大化だ。しかし、「体感治安」をマスコミに植え付けられた多くの市民は、むしろ歓迎しているようにみえる。全国で住民のパトロール隊が生まれるなど、「治安を守る意識」の異様な高まりは空恐ろしいほどだ。
 
 社会は、正義と悪、白と黒、右と左など対抗する概念だけではなく、どこにも属さないものが雑多に組み合わさることで、微妙なバランスをとっている。ハレ(聖)とケ(俗)が渾然として一体化しているのもまた社会だ。
 
 ヤクザもホームレスもサヨクも、危険分子はみんな排除しろという雰囲気は社会にとってマイナスでしかない。仮にそうなったら後に残るのは誰か。権力者と正義面した人間だけの集団など気持ち悪いの一言である。(北村肇)

復帰に1カ月以上かかった草なぎ剛さんは、肥大化した警察権力の“被害者”

 廃刊した写真雑誌『FOCUS』に、故中川一郎氏の立ち小便写真が載ったことがある。困ったような、はにかんだような表情が印象的だった。いまなら、野党議員が路上で排尿したら直ちに逮捕ということになるかもしれない。芸能界ではタブーといわれるSMAPの草なぎ剛さんだって、復帰までに事件から1カ月以上、かかったのだから。

 小沢一郎・前民主党代表は検察の力によって、すぐ目の前にあった首相の座をとりそこなった。むろん、草なぎさんの件は「国策捜査」ではない。だが、本来なら説諭ですむ事案で逮捕され謹慎に追い込まれたという点では、ある種の“被害者”とも言える。

 さらに見逃せないのは家宅捜索(ガサ)だ。公園で裸になって騒ぐのは近隣に迷惑をかけるが、さりとて凶悪犯ではない。尿検査で覚醒剤や大麻の成分が検出されたのなら当然だが、そんな事実もなかった。結局、微罪によるガサが見せつけたのは、検察同様、「警察権力」が異様に肥大化している実態であった。
 
 二つの例は、捜査当局の胸三寸で事件の取り扱いが決まる現実を浮彫りにした。これは危険である。たとえば、労働組合の役員を微罪で逮捕し、組合事務所にガサを入れることも可能になる。その組合が捜査のターゲットになっていれば、役員も組合員も絶対に立ち小便はできない。さらに、いわゆる“ころび公防”で逮捕、家宅捜索ということだってありうるだろう。

「横浜事件」のようなでっちあげ捜査は、戦後、過去の遺物になったと思われていた。しかし、「胸先三寸」で捜査内容が変わるということは、一歩間違えれば、でっちあげにつながってしまう。最近の事件捜査に、きな臭さを感じるのは私だけだろうか。
 
 さて、問題は捜査当局の姿勢にとどまらない。マスコミ捜査の行き過ぎを監視すべきなのに、逆にあおりまくるマスコミ。ミサイル騒動や豚インフル問題にもつながるが、論理的分析をかなぐり捨て、情緒に訴える報道が世論を誘導する。

 本誌先週号では、豚インフル騒ぎの背後にある「闇」を特集した。今週号は草なぎ事件の本質に斬り込んだ。こうした記事・企画は雑誌として当然である。官僚や政治家が隠蔽したいことを抉り出すのがジャーナリズムの責務だからだ。ところが、最も歴史も基礎体力もある新聞・テレビが、隠蔽に加担しミスリードに走る。これではまるで、戦争をあおり続けた時代への先祖返りだ。(北村肇)

得体の知れないクローン牛を食べる気にはならない

 人間の中には、バクテリアのような無数の生命体があるだけではなく、人間を人間たらしめている遺伝子にも、外部から入り込み寄生したとみられるミトコンドリアが存在する。遺伝子の地図であるヒトゲノムには、核ゲノムとは別にミトコンドリアの環状DNAが含まれるーーらしい。つくづく「命」とは不思議な世界だと思う。

 このミトコンドリアにある遺伝子は母親からしか受け継がれないというから、体細胞クローンで生まれた牛には、体細胞のミトコンドリアと卵子のミトコンドリアが混在する。科学的な仕組みはとんとわからないが、何か、とてつもないことが起きそうな気がする。何しろ一頭の牛に二つの命が同居するのである。

 遺伝子がらみの話題で、刑事事件におけるDNA鑑定をめぐり、過去の鑑定の信憑性に疑問を呈する判決が出た。「DNA」というだけで、いかにも科学的な印象を与えるが、とても完璧とは言えないのが実態なのだ。ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックが「遺伝子の二重らせん構造」を発表したのは1953年。遺伝子研究はその後飛躍的に進んだものの、まだ半世紀の歴史しかないのである。

 世界の脅威になっている豚インフルエンザも、ウィルスの正体はわからないことだらけだ。変異の実態が実は十分に解明できていないのである。以前にも紹介したが、エイズ騒動の際、ある研究者が「人為的につくったウィルスとでも思わないと解釈できない」と首をひねっていた。「ウィルスは宿主が死んだら自分も生きていけなくなる。これほど強い致死性を持つことが不思議」というのだ。

 これらの例をみただけでも、「二つのミトコンドリアが同居」したらどうなるのか、考えれば考えるほど不安になる。おそらく科学者も予測がつかないのではないだろうか。ところが、厚労省はこうしたクローン牛に「安全宣言」を出す気配だ。まったく、神経を疑いたくなる。

 真に科学的な姿勢とは、未知や不可知な世界に対して慎重に対応することである。「生命の神秘」はまだ解明されていない。むしろ、研究が進むほどさらに神秘性は深まっていく。遺伝子には、私たちの「知」のレベルをはるかに超える謎が潜んでいるとも限らない。拙速に結論を出すようなことではないのだ。
 
 豚インフル騒ぎの陰で、不穏な事態が進む。(北村肇)

「親米の民族派」という大いなる矛盾

 あの瞬間、「天皇は神ではなくなった」と実感した。むろん、私は皇室制度支持派ではないが、人知を超えた世界の非存在を実証出来ない以上、「神」を信じる人を全否定することはできない。「天皇=神」論者についても同様だ。だが、輸血を受けた時点で、昭和天皇は「人間」になったと断定せざるをえない。「神」の体にメスを入れ、さらには複数の人間の血液を注ぐことなどありえないからだ。

 それ以降、昭和天皇の「政治責任」がより強く問われたのは当然だろう。人間が「神」を裁くことはできなくても、人間である「大元帥」を裁くことは可能だからだ。一方で、平成の天皇が自ら象徴天皇制を強調するのも必然の流れである。憲法は、「人間宣言」をした天皇を象徴としている。そして、多くの市民・国民がそれを支持している。天皇制維持のためにも、天皇は「神」であってはならないのだ。

 実は、反天皇制を掲げる側にとってこの事態は厄介である。昭和天皇がすべての戦争責任を負うことで、「日本の伝統と文化を継承する皇室制度」は無傷ですむからだ。事実、平成の天皇が「平和主義者」であることへの異論はほとんど出てこない。結婚50周年を記念しての「お言葉」にも、「軍服を着ない天皇こそ真の天皇である」というメッセージが色濃く滲み出ていた。

 しかし、ここに「米国」という要素を持ち込むと、天皇制は別の矛盾にさらされる。本誌今週号で特集したように、政治家・昭和天皇が事実上、日本の米国属国化を認めたことは、最近の研究から明らかである。そして、米国の支配下におかれることで、当然のことながら「日本古来の伝統と文化」は大きく揺らいだ。

 評価は別にして、「天皇を戴いた日本は四民平等である」というのが皇室制の柱の一つだろう。どう考えても、米国のような優勝劣敗思想の国とは相容れない。むろん、新自由主義の導入など、到底、許されるものではないはずだ。「情けは人のためならず」が、本来の意味とは真逆に解釈される社会、それがアメリカナイズされた今の日本である。

 昭和天皇が問われる政治責任は、「戦争」だけではない。皮肉な表現を用いれば、「皇室制度のすっぽり抜けたところに米国という権力・権威を置いた」ことにもあるのだ。新憲法成立により象徴天皇制は残ったが、爾来、この国は、まったく風俗、慣習の異なる国・米国に隷属することとなった。「親米の民族派」がなぜ存在するのか、私には大いなる謎である。(北村肇)