編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「親米の民族派」という大いなる矛盾

 あの瞬間、「天皇は神ではなくなった」と実感した。むろん、私は皇室制度支持派ではないが、人知を超えた世界の非存在を実証出来ない以上、「神」を信じる人を全否定することはできない。「天皇=神」論者についても同様だ。だが、輸血を受けた時点で、昭和天皇は「人間」になったと断定せざるをえない。「神」の体にメスを入れ、さらには複数の人間の血液を注ぐことなどありえないからだ。

 それ以降、昭和天皇の「政治責任」がより強く問われたのは当然だろう。人間が「神」を裁くことはできなくても、人間である「大元帥」を裁くことは可能だからだ。一方で、平成の天皇が自ら象徴天皇制を強調するのも必然の流れである。憲法は、「人間宣言」をした天皇を象徴としている。そして、多くの市民・国民がそれを支持している。天皇制維持のためにも、天皇は「神」であってはならないのだ。

 実は、反天皇制を掲げる側にとってこの事態は厄介である。昭和天皇がすべての戦争責任を負うことで、「日本の伝統と文化を継承する皇室制度」は無傷ですむからだ。事実、平成の天皇が「平和主義者」であることへの異論はほとんど出てこない。結婚50周年を記念しての「お言葉」にも、「軍服を着ない天皇こそ真の天皇である」というメッセージが色濃く滲み出ていた。

 しかし、ここに「米国」という要素を持ち込むと、天皇制は別の矛盾にさらされる。本誌今週号で特集したように、政治家・昭和天皇が事実上、日本の米国属国化を認めたことは、最近の研究から明らかである。そして、米国の支配下におかれることで、当然のことながら「日本古来の伝統と文化」は大きく揺らいだ。

 評価は別にして、「天皇を戴いた日本は四民平等である」というのが皇室制の柱の一つだろう。どう考えても、米国のような優勝劣敗思想の国とは相容れない。むろん、新自由主義の導入など、到底、許されるものではないはずだ。「情けは人のためならず」が、本来の意味とは真逆に解釈される社会、それがアメリカナイズされた今の日本である。

 昭和天皇が問われる政治責任は、「戦争」だけではない。皮肉な表現を用いれば、「皇室制度のすっぽり抜けたところに米国という権力・権威を置いた」ことにもあるのだ。新憲法成立により象徴天皇制は残ったが、爾来、この国は、まったく風俗、慣習の異なる国・米国に隷属することとなった。「親米の民族派」がなぜ存在するのか、私には大いなる謎である。(北村肇)