携帯電話は社会にどんな変化をもたらすのか、まだ解答が浮かばない
2009年6月12日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
平日の午前10時、JR山手線。座っている乗客28人。そのうち携帯電話を使っているのは6人、新聞を読んでいるのはゼロ。書籍を読んでいるのは2人。『週刊金曜日』を手に持っているのは1人(私です)。携帯電話とは言っても、通話している人はおらず、大半はメールをしているかゲームに興じているようだ。
70年代は新聞、80年代は週刊誌、90年代はスポーツ紙を読む人が多かった。ただ、それはサラリーマンの傾向で、若者はウオークマンが主流だった。一方、携帯は、性別に関係なくすべての年代に浸透している。
今月初め、ゼネラル・モーターズ(GM)が経営破綻し、事実上の国有化になった。かつて経営陣は「GMにとっていいことは、米国にとっていいことだ」と豪語していたという。一足先に破綻したクライスラーも、まさか「倒産」の憂き目に遭うとは想像していなかったはずだ。
だが、電通のある中間管理職は10年以上前、こう話していた。「車の時代は終わった。これからはITがらみ、特に通信ですよ」。彼が指摘したのは「広告の出稿量」だった。事実、これまではダントツに多かったトヨタの広告出稿は減少し、「携帯電話がらみの広告がなければ、もう広告営業は成り立たない」(全国紙広告局員)という現状だ。
本誌今週号でソフトバンク商法を取り上げたが、トヨタ批判がタブーなように、これからは携帯会社の批判記事は徐々に姿を消していくだろう。弊社の「企業正体シリーズ」に、電通、トヨタ、三菱重工に続き、ソフトバンクを加えることになるかもしれない。
さて、携帯電話の大きな特徴は、通信、情報検索、ゲームなど複数の機能をもっていること。この点は新聞、テレビとはまったく異なる。言い換えれば、携帯は「自分の部屋にいる」ような状況をつくることができるのだ。
一方で、化粧や食事を車内ですます人の姿は珍しくなくなった。まさに私的空間と公的空間の融合が生じている。両者の境目が薄れたとき、社会や文化にいかなる変化が現れるのか。「公共道徳の乱れ」という単純なことで収まる話ではなく、もっとはるかに本質的な変容がもたされつつある――と、そこまではわかる。だが、問題はそこから先に何があるのかだ。携帯電話の底知れぬ「力」にたじろぐ浅学非才の私には、解答のきっかけすら浮かばない。(北村肇)