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「笑いのない社会」をもたらした日米安保体制の半世紀

 

 貧乏性としては珍しく、昼下がり、オープンカフェの椅子にもたれかかり、道行く人々をぼんやりと見ていてはっとした。どうして笑顔がないのか。黒っぽいスーツで足早に歩くサラリーマンは仕方ないとして、若者も高齢者もまるで無性に腹が立っているような、そうでなければ何にも関心がないような表情だ。

「一人で笑いながら歩いていたら、それこそおかしい」と言われるかもしれない。だが、そうではなく「笑いの痕跡」がないのだ。ひょっとしたら2、3日笑ったことがないような、そんな感じ。そもそもこの国にはいま、作り笑いや乾いた笑いはあるにしても、心の筋肉をそっとほぐしてくれる笑いがあまりに少ない。

 独断が過ぎるかもしれないが、淵源は、戦争の未精算にある気がする。アジア各国への謝罪や補償だけではない。戦争を引き起こす「人間の心」の問題――利己心、征服欲、嫉妬などの克服――に取り組まないまま、米国隷従のもと経済復興に邁進したつけだ。

 戦争は自然災害ではない。国家が引き起こすものだ。それは結局、人間が自らの意志で引き起こすことにほかならない。地球上から戦争を一掃するには、まず、われわれが心の中に抱える「闇」を明るみに出す必要がある。

 1945年8月、日本は人間のもつさまざまな「欲望」に向かい合う絶好の機会を迎えた。だが、戦争をもたらした真の原因解明には目をつむり、「勝者」の米国に付き従う道を選んだ。侵略戦争に突き進んだ責任を、国家も市民も不問に付してしまったのだ。後に残ったのは、冷戦時代の申し子、日米安保条約下における「エコノミックアニマル」だった。

 一方の米国は、旧ソ連の崩壊で世界唯一の超大国となると、日本に対し「浮沈空母」だけではなく、軍事力もカネも求め始めた。新自由主義の導入も、日米ガイドラインの制定も、すべては米国の戦略に基づいたものだ。せっせと貯め込んだ日本の預金は、市民の知らないまま、米国に流れ込んでいったのである。

 それだけではない。弱肉強食や優勝劣敗的発想に免疫力のない日本は、あっという間に格差社会に覆われた。利己心とは何か、征服欲とは何か、嫉妬とは何か――これらの問いに正面から立ち向かい、考えぬき、解答を出すどころか、カネがすべての「裸の資本主義」に侵されていったのだ。余裕のない、笑いのない社会は、日米安保体制半世紀が生んだ――それが歴史的事実のように思える。(北村肇)