編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

鳩山首相に望むのは、事業仕分けの前に「憲法を具現化する」と宣言することだ

 政権支持率が下がらない。「故人献金」の地検捜査着手、小沢一郎氏の強引な党運営など、命取りになりかねない報道があってのうえだから、鳩山人気はなかなかのものだ。だが、私の評価は落ちつつある。具体的な政策の問題ではない。いまだに、どこを向いているのか新政権の方向性が定まらない。そのことへの不満である。

 国家戦略室に行政刷新会議と、これまでの官僚主導を覆すべく、さまざまな策が繰り出される。刷新会議の事業仕分けが進めば、次々と「ムダ」が俎上に載るだろう。それはそれで結構なこと。大いに進めてほしい。ただ、肝心なのは「ムダ」の質である。

 たとえば、官僚天下り団体への補助金、アニメの殿堂などはわかりやすい。一部のダムや道路建設の凍結も、市民感覚でうなずける。だが、もっと本質的なムダもある。原発推進に関わる国費が典型だ。原発は、さまざまな意味で「予測不能」というリスクを抱えている。起こりうる事故も、それがもたらす損害も予測ができない。このような技術への投資はムダとしかいいようがない。

 民主党の動きをみていると、概算要求の95兆円から3兆円削るとか、赤字国債を44兆円に抑えるとか、数字ばかりが取りざたされ、「ムダとは何か」といった基本的な論議が行なわれていない。これでは民間企業と変わりない。いや、企業だってもう少し「哲学」がある。

 本質的なムダの一方には、社会にとって必要なムダもある。生活保護の母子加算を前政権はムダと判断し廃止した。新自由主義を基盤とする自民党政権としては当然の措置でもある。これに対し、新政権は必要だとして復活を決めた。ここにおいては、「ムダ」に関して180度の転換があった。ところが、折角の政策も「バラマキ」に見えてしまう。なぜか。鳩山政権が目指す理想の社会像がはっきりしないからだ。

 ちなみに、私が理想とするのは「不自然死のない社会」である。市民が自然死をまっとうするためには、何よりも戦争を起こしてはならない。戦争に巻き込まれないための外交が欠かせない。また、自殺を防ぐためのセーフティネットが重要となる。当然、格差・貧困社会の一掃、子どもたちの人権を最優先した教育――等々の政策が重視される。
 
 ここで気づく。要は、憲法を具現化すればいいのだということに。事業の仕分けもいいが、まずは、鳩山首相がそのことを宣言すべきなのだ。(北村肇)

「痛み」を我慢して受け入れるべきは、「弱者」ではなく「強者」だ

 公園のベンチを見るたびにむかむかする。何でわざわざ仕切り板をつけるのか。どうせ、ホームレスの人が寝られないようにするためだろう。いいではないか。住む場所がないのだ。だからベンチで横になる。そのどこが悪いのか。

 東京・池袋では、NGOらが行なっていた炊き出しが、「東京電力の変電所建設」を理由に締め出された。「別の場所を斡旋してほしい」という要求も豊島区は拒否した。本誌でも紹介したが、このような例は他の場所でもある。大抵、自治体は「近隣住民に反対もあるので」と弁解する。どこか社会がおかしい。歪んでいる。

 何度でも同じことを言おう。「小泉―竹中」構造改革路線が、それでなくともふらついていた日本社会を徹底的に歪めてしまった。小泉純一郎氏は「痛みの伴う改革」と叫び、多くの市民が「平等に痛みを分かち合うことは必要」と思ってしまった。違う。「痛み」を甘受すべきは、「強い者」に限られるのだ。

 大企業には高い税率を課す。そのことにより、株主配当は減るかもしれない、正規社員にしわ寄せがいくこともありうる。だが、大企業、その株主、正規社員は「強者」である。「弱者」を救うための「痛み」ならやむをえない。高額所得者から多額の税金をとるべきなのは言うまでもない。

 政権交代を実現した民主党の鳩山由起夫首相は、かねてから「友愛」を掲げている。素直に受け止めれば、社会的弱者の視点に目線を置くということなのだろう。米国ではなく沖縄側に、大企業ではなく派遣社員側に、教育委員会ではなく児童・生徒側に立つ。具体的にはそういうことだ。これらが実現して初めて、自民党の悪政よさらば!となる。

 ならば、直ちに、ベンチの仕切り板は外し、炊き出しは確保し、税制改革をし、公平再分配を基本にした政策を推進すべきだ。いま必要なのは、「強者」がノーブレス・オブリージュ(高貴な義務)に目覚めることである。権力を持つ者、権威を持つ者、資産を持つ者、こうした「強者」が自らの富や力を社会に放出することこそ「友愛」の精神である。
 
 そして、私たち市民ひとり一人に課せられているのは、「強者」に高貴たれと迫ることだけではない。そこに自分より社会的な弱者がいたら、相対的に自分が「強者」であることを意識し、少なくとも排除したり、排除に手を貸したりしないことだ。「小泉―竹中」の弱肉強食路線に巻き込まれてはいけない。(北村肇)

権力をもった今こそ、「連合」の心ある組合員は立ち上がるべきだ

「私はいつも被害者とともにいたい。加害者のそばにいるのは嫌だ」。この科白こそ、アンジェイ・ワイダ監督の痛切な思いであり、世界の人々に投げかけたかったメッセージなのだろう。最新作『カティンの森』に登場するレジスタンス運動に身を投じた女性の言葉だ。体制側にいる姉の説得に対し決然と言い放つ。

 第2次大戦中の1940年、約1万5000人のポーランド人将校がソ連によって虐殺された。いわゆる「カティンの森事件」だ。ナチスドイツの占領を解かれたポーランドはソ連の衛星国となる。形式的な独立のもと「事件はナチスの犯行」というデマを流す共和国政府。その堕落ぶりに耐えられない妹は、戦い、捕らえられ、歴史の闇に葬られる。

 長い間、労働組合運動に関わってきた私は「被害者の側に身を置かなければだめだ」と自分に言い聞かせてきた。企業内だけではなく社会の被害者に寄り添った運動こそが労組に求められるとも考え、行動してきた。組織率が年々、減少している理由の一つは、このような意識が希薄になっていることにある。自分の待遇さえ良くなればいい、そのためには自社の利益が上がればいい――利己的(利社的)な発想には、被害者に寄り添う姿勢が見られない。

 上述のような傾向は大企業組合ほど顕著だ。そして、経団連加盟企業の労組は多くが「連合」に加盟している。大半が、カネ、人の面では余裕がある。本来なら、もっと社会改革に向け積極的に行動すべきだ。しかし、これらの大企業労組が社会福祉的活動に力を注いだケースはほとんど耳にしない。反面、本誌今週号で特集したが、大企業、連合の二人三脚としか思えないような事例もある。

 先の総選挙で民主党が圧勝した。同党には連合の支援を受けた議員が数多くいる。官房長官の平野博文氏は松下労組出身だ。民主党政権は、日本の政治史上初めて、労組が中枢に入り込んだ政権でもある。これまでの「自民党+財界VS民主党+連合」というわかりやすい構図は崩れた。民主党、財界、連合の関係がどうなるかで、政治の行方は大きく変わるだろう。

 果たして「連合」は、加害者側の立場を拒否した妹になれるのか。甘い期待はもっていない。だが、いたずらに悲観的にもなっていない。労働組合の良心をもった組合員はたくさんいる。権力をもったいまこそ、その権力を被害者のために使うべきだ。心ある組合員が立ち上がれば、市民は歓呼の声をもって応えるだろう。(北村肇)

小選挙区制のもたらす二大政党制が抱える問題点

 わかったようでわからない言葉はいろいろある。「民意を反映する」もその一つ。大ざっぱに分ければ二つの意味があろう。「多数派の意思、価値観を重視する」「少数意見を排除せずに尊重する」。これらは両立する場合もあるし、対立することもある。そしてまた、どちらもが「民主的」とされるのだから複雑だ。

 選挙制度を小選挙区制にすれば死票が増える。前回も今回も総選挙の結果はそのことをまざまざと示した。だが、ある意味で、それは「やむをえない」ことでもある。民主主義の基本の一つは多数決。だから、仮に「51対49」でも「多数派の意思は51」となり、「49」 は”合理的”に無視されてしまう。実はこの例えには落とし穴がある。実際は「51対49」となることは少なく、「40対35対25」のようにばらける。過半数に達しない「40」が絶対多数として、「60」を排除する構図だ。「これも民主主義」と言い切るのは、結構、度胸がいる。

 小選挙区制度のもたらす二大政党制には、常に上述のような「死票」の問題がつきまとう。当然、「少数意見の排除につながる」という批判が出る。しかし私は、それ以上に「独裁」の危惧を抱く。

「構造改革」選挙で圧勝した小泉政権は格差・貧困社会を生み、自民党は退場。社会民主主義的政策を打ち出した民主党が政権を奪った。一見すると、うまく振り子が振れているように思える。だが、たとえば「教育基本法改悪」という結果が残ったことをどう考えればいいのか。
 
 安定多数のまま小泉氏を継いだ安倍晋三政権は、「憲法改正」「教育基本法改正」にこだわった。だが実態は、安倍氏のこだわりであり、与党全体にそこまでの熱意があったようには見えない。ここに二大政党制の陥穽がある。政権をとれば、とりあえずは「独裁」が生じる。しかも小選挙区制度のもとでは、首相や幹事長の権限は極めて大きい。その首相がこだわる政策は、内容のいかんにとどまらず、実現してしまう――という図式である。

「安倍さん個人の資質」と切り捨てることはできない。安倍氏は私利私欲で教育基本法を改悪したわけではないだろう。「国をよくしたい」という思いが基盤にあったはずだ。つまり、政治家の「善意」は必ずしも市民・国民にとってプラスにはならないのである。制度がある以上、「困った人」が実質的な独裁者になってしまう危機感は払拭されない。このことをおさえた上で、選挙制度のあり方を考えたい。(北村肇)

郵政民営化が捨て去った「ぬくもり」を、新政権は甦らせることができるか

 ぬくもりが欲しい。演歌の歌詞ではない。いまこの国に暮らす多くの人が求めているもの。それはぬくもりではないか。本来、すべての人の心にある、あたたかく相手を包み込む感情。お互いが包み込んだとき、そこに生まれるのがぬくもり。とりたてて探さなくても求めなくても、そこかしこにあったぬくもり。

 中国映画『山の郵便配達』(1999年)を思い出す。80年代初頭。湖南省西部の山間地帯で長い間、郵便配達をしてきた男性が、息子に仕事を引き継ぐため最後の仕事にでる。峻厳な山道を辿る2泊3日の過酷な道のり。

 息子は、仕事で家を留守にしがちな父親とは折り合いが悪かった。だが、一軒、一軒、配達先を回りながら、心に変化が生まれていく。手紙は人の心を伝えるもの。人と人の心をつなぐのが、手紙を配達する仕事。そのことに気づいた息子は、父に尊敬の念を抱き、仕事の責任感にも目覚めていく。

 4年前、小泉純一郎首相の大号令のもと「郵政民営化」が現実化した。郵政事業見直しの目的が「だらだらしたお役所仕事の改善」だったのなら文句はない。だが、この欄でも何度か触れたように、結局は米国の要求に従っただけである。新自由主義に基づくマネーゲームが背景なのだから、利益優先の「弱者無視」に走るのは必然の帰結。米国を太らせるために、僻地の人々が迷惑を蒙ったのだ。

「民」が自社の利益を優先するのは避けられない。非効率そのものの僻地郵便局に投資する発想など微塵もないだろう。だからこそ「官」の事業が存在するのだ。国や自治体が目指すのは利益ではなく社会福祉。福祉への投資は、「民」には無駄であっても「官」には責務なのである。

 この国の為政者は「ぬくもりが欲しければ勝者になれ、カネを稼げ」と言い続けた。そのぬくもりは豪邸や羽布団にすぎない。本当のぬくもりは心が生む。山間に住むおばあさんに手紙を届ける郵便配達のおじさん。手紙を書く人、届ける人、受け取る人。そこに醸し出されるあたたかい空気。それがぬくもりである。そして、税金は、本当のぬくもりにこそ使うべきだ。

 民主党は郵政民営化の見直しをマニフェストに入れた。国民新党の亀井静香代表が郵政担当大臣に就任した。新政権の英断に期待すると言っておこう。(北村肇)