編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

『1Q84』の村上春樹は、「この世とあの世の境目」に飛翔し、落下した

 作家は錬金術師だ。原料(事実)がなければ何も生み出せない鋳造工のジャーナリストとは異なる。事象として立ち上がっていなくても社会に流れる見えない風。それを感知し、フィクションの作品に仕上げる。読者はそこに「真実」を発見し、感動し、社会や自分を見つめ直し、時には人生の指針すら手にする。

 今年のベストセラーは『1Q84』(村上春樹著)だった。文学作品が売り上げトップになるのは久しぶりだ。錬金術師としての村上を評価する一人として、何を見せてくれるのかわくわくして読んだ。結果はがっくりだった。舞台装置はともかくとして「オウムなるもの」に取り組んでいるのはわかる。だがそこから先があいまいすぎる。

 パラダイム変革期に起きた象徴的事件ながら、オウムの解明は全くされていない。麻原彰晃が逮捕され死刑に処されたからと言って、極論すれば、それは事件の本質に関わりのないことだ。たとえば私自身、煩悶し結論の出ない疑問がある。信者が「ポアは対象者の救済」と確信していたなら、果たしてそれは殺人として裁けるのか――。

 人類が種を保存し続けてこられたのは、救済者としての「神」を発見あるいは発明出来たからにほかならない。だからこそ、「神」を殺した理性が実は戦争の世紀を生んだ現実を前に、人類は立ち竦むしかないのだ。麻原が救済者となり、そのもとに集ったまじめな青年が「教え」を忠実に守り実行したのは、まさしく世紀末の風景だった。だが「気の触れた男の犯罪」という、矮小化以外何物でもない結末をつけることにより、魂の救済を求める現代人はますます行き場を失った。

 このことになぜ文学作品が正面から斬り込まないのか、もどかしかったところに、『1Q84』は登場した。読み進めるうち、当然、神の死んだ時代における魂の救済が描かれると思った。しかし作品は迷走し、破綻。愕然とはしたが、ここは続編を待とうと思っていた。だが高村薫の『太陽を曳く馬』を読んでしまったことで、その期待もしぼんだ。高村作品は、オウムを刑事事件として処理した愚かさに斬り込み、人間存在の深遠さ、そこから目を背けてきた現代社会を鋭くえぐりとっている。これに比べたら、村上は勝算のないまま「この世とあの世の境目」に飛翔し、みじめに落下したとしか言えない。

 とにもかくにも09年は、「オウムなるもの」が文学によって本格的に解剖されるきっかけの年になった。来年はどんな作品が登場するのか。前言撤回し、やはり『1Q84』続編にも期待しよう。(北村肇)

『セブン-イレブンの罠』はビジネスホラー!?

思わずヒザを叩いてしまった。
そう、そうなんです。よく言ってくれました。

<その1>「シートン俗物記」のDr-Setonさん

 「自分も勘違いしていたのだが、こうしてセブンイレブン商法を俯瞰してみると、これは小売業ではない。ずっと、えげつない手段を使った商法だ、と思っていたのだが、そうではなく、小売業を装った詐欺なのだ」

<その2>「深町秋生のベテラン日記」 作家の深町秋生さん

「これ(コンビニ商法)は派遣労働の問題よりも根が深いといわざるを得ない悲劇のビジネスモデルなのだ」

<その3>献本させていただいた「5号館のつぶやき」の栃内新先生

「脱サラして、小売店を廃業して、あるいは親の遺産をつぎこんで、コンビニのフランチャイズになろうと思っている方は、まずこの本を読んで再考してみることをおすすめします」

 いずれも弊社刊行『セブンーイレブンの罠』の読後感。さすがにアルファブロガーの指摘は簡潔にしていて要を得ているだけではない。本質をズバリとついている。セブンーイレブン商法は詐欺で、悲劇のビジネスなのだ――。
 ところが、こうした実態はまったくといっていいほど表面化してこなかった。コンビニに関する報道といえば「強盗」くらい。なぜか――。「クライアントタブー」があるからだ。「悪口や批判を報道したら広告を出しませんよ」と、電通を通して新聞社やテレビ局を脅すのである。
「ふざけるな、やれるならやってみろ」と啖呵を切って記事にしたのは、はるか昔のこと。いまや「はい、わかりました」となってしまうのが実態。かくして、さんざん悪さをしながらセブンーイレブン本部だけが「いい気分」に浸り大もうけしていたのである。
 そこで、広告に頼らない『週刊金曜日』がキャンペーンをはったところ、裁判でセブンーイレブンが負けたり、公取が動くやらで、さすがにマスコミも「セブンーイレブンの問題点」を報じるようになった。とはいえ、どこも上っ面をなでるような“コンビニエント”な記事ばかり。それに比べると、手前味噌ながら『セブンーイレブンの罠』は凄い本である。どこが凄いか――。

<その4>再びDr-Setonさんの「シートン俗物記」から

「この本のオビには高杉良氏が「小説化したい想いに駆られる!!」と推薦文を書いているが、この部分はスティーブン・キング絶賛!!でも構わない感じがする。それくらい、市井の人々がセブンイレブンの罠に嵌って底無しの沼に引きずり込まれるかの描写は恐怖を誘う。
これはもう、ビジネスの世界を舞台にしたホラーだ。新ジャンル、ビジネスホラー」

 さて、コンビニの天皇・鈴木敏文氏役にはだれを使おうか。もっとも、そんな度胸のある俳優がいるかなあ?

「日韓併合百年」を控えての『坂の上の雲』。どう考えても政治ドラマだろう

 敬愛してやまなかったジャーナリストが生前、幾度も同じ事を口にした。「司馬遼太郎は決して偏狭な国家主義者ではない」。いわゆる司馬史観には否定的な私が『坂の上の雲』を引き合いに、日露戦争を肯定する姿勢を批判すると、「エセ愛国者がこの作品を悪利用しているだけ」という反論が返ってきた。

 取材に基づいた事実しか記事にはならないと言い続けた人が、単なる印象論を語るはずがない。といって、こちらも、司馬氏が生前『坂の上の雲』の映像化を拒否していたことくらいしか知らない。そこで、「では、そのことを『週刊金曜日』に書いて欲しい」と頼み、打ち合わせを始めたところで病に倒れ、帰らぬ人になってしまった。

 司馬氏の日露戦争評価について、『坂の上の雲』の一節がよく取り上げられる。
 
「ロシアの態度には弁護すべきところがまったくない。ロシアは日本を意識的に死に追いつめていた」「日露戦争というのは、世界史的な帝国主義時代の一現象であることはまちがいない。が、その現象のなかで、日本側の立場は、追いつめられた者が、生きる力のぎりぎりのものをふりしぼろうとした防衛戦であったこともまぎれもない」
 
 この「避けられない戦争であった」という史観に対し、たとえば大江志之夫氏は『日露戦争スタディーズ』(紀伊国屋書店)の中で、こう書いている。ちなみに大江氏は東京教育大学時代の私の恩師で、緻密な研究者である。

「ロシア皇帝の韓国を日本の勢力圏として承認するという勅命も、満州の大部分からロシアの政府も軍も手を引くという提案も、日本の政府に伝えられることなく、日本は主観的な危機感だけから、あの大戦争を決定し、実行に移してしまった。……ロシア陸軍は対日戦争の準備も研究もしていなかった」

 最近では、和田春樹氏が「ロシアは露日同盟を検討していた」という史料を発掘した。日露戦争が「避けられた戦争」であるのは、ほぼ裏付けられているようだ。ただ、司馬氏が新聞連載をしていた当時、どのような史料を把握していたのかはわからない。
 
 いずれにしても、『坂の上の雲』が、「列強に打ち勝った輝ける歴史の称賛」に利用されているのは間違いない。来年は「日韓併合百年」にあたる。NHKの『坂の上の雲』が政治的ドラマではないと、誰が信じるだろうか。(北村肇)

沖縄県民はもちろん本土人も「米国属国」の被害者であることを忘れてはならない

「沖縄」は、「革新的知識人」を標榜する者にとってリトマス試験紙だ。沖縄県民の痛みや怒りがわかりますかと問われたとき、深く肯いたうえで加害者の立場として発言する。米軍基地の75%を押しつけたまま本土人は見て見ぬふりをしている、その一員としての懺悔が「知識人」として最低限の条件である。

 鳩山新政権は、このことを悪利用した。沖縄に寄り添ってこなかった事実を踏まえ、反省し、日米関係の見直しにまで踏み込む。「加害者」としてのしおらしい態度を見せつつ、自民党政権からの大転換を装ったのだ。しかしその後の推移を見る限り、現時点では、みせかけにすぎなかったとしか言えない。

 最重要課題になっている普天間基地移設問題。前政権の方針を踏襲し、辺野古沖移設を直ちに決定すべきという北沢俊美防衛相や、嘉手納基地への統合を主張する岡田克也外相は論外だが、とりあえず鳩山首相は「沖縄の意向を最優先」とのポーズをとっている。オバマ大統領に釘を刺されても踏ん張ったという姿勢をみせるため、1月の名護市長選、あるいは6月の参議院選までは結論を出さない可能性もある。このまま拙速な判断をすることなく、県外移設への道を模索するのなら、それなりの評価をしたい。

 しかし、よしんば県外移設が実現したとしても、それが即「沖縄問題」の解決につながるわけではない。基地撤去後の沖縄をどうするのか、その戦略がなければ本質的解決はありえない。本誌今週号で詳述したが、沖縄の基地問題には常に地元建設業界の利権がからむ。当然といえば当然。沖縄県の経済が基地の上にのっている事実は隠しようがないのだ。だから、そこに利権が生まれるのは避けようがない。だが、政治家や官僚だけではなく「革新的知識人」の中にも、この実態を見て見ぬふりをする人がいる。「被害者」には清く美しくあって欲しいという、身勝手な気分があるからではないか。

 そもそも本土人は、自らが加害者であるとともに被害者でもあるという事実に目を向けなくてはならない。沖縄の基地がすべて本土に移転すれば、基地問題は全国に拡散する。つまるところ、米国支配から脱しない限り「日本人」はすべて被害者なのだ。偏った「加害者の立場」は、むしろ歪んだ「上から目線」につながりかねない。差別された者がより差別された者をあわれむような態度は、厳に慎むべきだ。でないと「真の敵」を見失うことにもなる。「沖縄県民と本土人はともに米国属国による被害者である」という実態に基づいた闘いも重要ではないだろうか。(北村肇)

「バラク・ユキオ」と呼び合う茶番でわかる日米関係の現状

 バラクにユキオ。また始まった。ロン・ヤス以来、もう笑ってしまうしかない。だが、こんな茶番が実は怖い。おちゃらけた雰囲気が現実を消すからだ。

 イラク戦争を我先に支持したのは、誰あろう日本の首相、小泉純一郎氏。その小泉氏がブッシュ大統領とキャッチボールするパフォーマンスは効果抜群だった。陰惨で陰湿で仕組まれた侵略戦争、それに加担する日本というおぞましい構図を、トップ同士のお遊びは軽い笑いでまぶした。このしたたかな演技を鳩山由紀夫氏はどう見ていたのか。米国からの自立、対等な外交を目指すと公言しているのだから、当然、苦々しく感じていたはず。なのに、またまたバラク・ユキオである。

 ロナルド・レーガン大統領が中曽根康弘首相を「ヤス」と呼んだ1985年、米国にとり日本は「相手にする国」だった。むろん、それは自国の利益のために利用する価値があるという意味だ。「ロン・ヤス」に気をよくした中曽根氏は、日本を米国の浮沈空母にしただけではなく、市場開放を進め米国資本が日本の資産をかすめ取る手助けをするなど、米国にとってはこのうえなく使い勝手のいい首相となった。

 それから24年、日米関係は変質した。オバマ政権は日本を、対等どころかまともに付き合う国ともみていない。来日が1日遅れたのも、都内での講演がオバマ氏にしては珍しく「歴史的演説」とはほど遠い、あたりさわりのない内容だったのも、ジャパン・ナッシング(無視)の証しである。

 本誌今週号で霍見芳浩ニューヨーク市立大学教授が述べているように、米国での報道は「訪中」一辺倒で、米国民の多くは訪日の事実さえ知らないという。いまや、米国にとって外交の最重点は「対中関係」であり、日本は完全な支配下にある子会社にすぎない。今回も、親会社の社長・バラクが子会社社長をユキオと呼び、社員(日本の市民・国民)向けにほんの少しヨイショしただけのこと。言うまでもなく、この茶番はバラクにとってもユキオにとっても損ではない。

 首脳同士が信頼関係を結ぶのは結構。しかし、そもそもファーストネームで呼び合ったからといって結べるものではない。そんなこと子どもだってわかる。いや、これは子どもに失礼。子どものほうがよりわかると言い換えよう。二人は、裸でぶつかってこそ親友が生まれるという事実を知らない、あるいは知っていても無視する「バカな大人」の典型ということだ。(北村肇)