『1Q84』の村上春樹は、「この世とあの世の境目」に飛翔し、落下した
2009年12月25日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
作家は錬金術師だ。原料(事実)がなければ何も生み出せない鋳造工のジャーナリストとは異なる。事象として立ち上がっていなくても社会に流れる見えない風。それを感知し、フィクションの作品に仕上げる。読者はそこに「真実」を発見し、感動し、社会や自分を見つめ直し、時には人生の指針すら手にする。
今年のベストセラーは『1Q84』(村上春樹著)だった。文学作品が売り上げトップになるのは久しぶりだ。錬金術師としての村上を評価する一人として、何を見せてくれるのかわくわくして読んだ。結果はがっくりだった。舞台装置はともかくとして「オウムなるもの」に取り組んでいるのはわかる。だがそこから先があいまいすぎる。
パラダイム変革期に起きた象徴的事件ながら、オウムの解明は全くされていない。麻原彰晃が逮捕され死刑に処されたからと言って、極論すれば、それは事件の本質に関わりのないことだ。たとえば私自身、煩悶し結論の出ない疑問がある。信者が「ポアは対象者の救済」と確信していたなら、果たしてそれは殺人として裁けるのか――。
人類が種を保存し続けてこられたのは、救済者としての「神」を発見あるいは発明出来たからにほかならない。だからこそ、「神」を殺した理性が実は戦争の世紀を生んだ現実を前に、人類は立ち竦むしかないのだ。麻原が救済者となり、そのもとに集ったまじめな青年が「教え」を忠実に守り実行したのは、まさしく世紀末の風景だった。だが「気の触れた男の犯罪」という、矮小化以外何物でもない結末をつけることにより、魂の救済を求める現代人はますます行き場を失った。
このことになぜ文学作品が正面から斬り込まないのか、もどかしかったところに、『1Q84』は登場した。読み進めるうち、当然、神の死んだ時代における魂の救済が描かれると思った。しかし作品は迷走し、破綻。愕然とはしたが、ここは続編を待とうと思っていた。だが高村薫の『太陽を曳く馬』を読んでしまったことで、その期待もしぼんだ。高村作品は、オウムを刑事事件として処理した愚かさに斬り込み、人間存在の深遠さ、そこから目を背けてきた現代社会を鋭くえぐりとっている。これに比べたら、村上は勝算のないまま「この世とあの世の境目」に飛翔し、みじめに落下したとしか言えない。
とにもかくにも09年は、「オウムなるもの」が文学によって本格的に解剖されるきっかけの年になった。来年はどんな作品が登場するのか。前言撤回し、やはり『1Q84』続編にも期待しよう。(北村肇)