編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

消費税論議は、「国家論」を前提にしなくては始まらない

「灰色」の美しさや魅力に気付いたのは、生をうけ半世紀たったころのことだ。それまでは「白か黒」しかなかった。新聞記者時代は「断定魔」と揶揄された。何でも白か黒でないと気がすまない。「善は善」「悪は悪」。別に牽強付会で言い張ったつもりもなく、本人としては至極、当然の生き様だった。

 特にきっかけがあったわけではない。「生」も「社会」もデジタルではなくアナログなんだと、学生時代の講義などすっかり忘れた不勉強の輩がようやく実感。そんなとき、世界には純粋な白も黒もないこと、そう思いこむことは逆に危険であるという真実に行き着いた。遅すぎた目覚めと、われながら気恥ずかしい。

 消費税論議が延々と続いている。いつまでたっても結論が出るようで出ないのは、「政争の具」となるばかりで、まっとうな議論にならないからだ。民主党は昨年の総選挙の際「4年間は消費税を上げない」と公約した。複数の同党関係者は「党内では異論もあったが、選挙のためならやむなしとして表面化しなかった」と明かす。

『東京新聞』の報道(1月15日朝刊)によると、菅直人財務相は「今後、消費税の引き上げ議論に入る可能性はあるか」との質問にこう答えている。

「鳩山由紀夫首相も表明しているが、四年間は引き上げない。上げる時には選挙で問うことが前提だ。この一年は徹底的に無駄を削り、やりきったという時に福祉分野を維持するにはどうかという議論は必要になってくる」

 同紙記事の見出しは「菅氏、消費税上げ言及」となっている。取材時のニュアンスとして「次の衆院選では触れてくる」と記者が感じたためだろう。すでに仙石由人行政刷新担当相は「議論すべき」と公言しており、民主党が少しずつ軸足を動かしているのは間違いない。

 消費税に限らず、税金問題は「国家論」が基盤となる。どのような社会体制を目指すのかという本質的な議論が先なのだ。北欧のように、高い税金と豊かな福祉政策で一定の成功を収めている国は存在する。消費税にしても、仮に税率が上がったとしても、結果的に社会的弱者の救済につながる道もありうるかもしれない。単純に黒白をつけるテーマではない。本質的議論さえ経れば、美しい灰色決着も存在するだろう。ただし、すべての前提が憲法25条であることは言うまでもない。(北村肇)

かつて、新聞やテレビ報道にはブリキの玩具の肌触りがあった

 ブリキの玩具。結構、長い間、静かな人気を保っている。私にとっては、その手触りがなつかしい。触れたとき、最初は冷たいのにじわりと温かみを増してくる。体温が伝わるからだ。ネジを巻く。カタカタと動き出す自動車。ギュッギュと泳ぎ始める金魚。私の体温をもったそれらは、確かに私の分身である。

 かといって、パソコンゲームを頭から否定する気はない。子どもや若者が熱中するだけの魅力があるのだろうし、私自身、いい歳をしてインベーダーゲームにはまったこともある。ただブリキの玩具とは違う。パソコンはそれ自体が完結した機械だ。ある意味、人間の介入は許さない。ロールプレイゲームにしても、何かを育成するゲームにしても、所詮は計算されたソフトの枠内のことでしかない。パソコンが人間の分身になることはありえない。体温の伝わることはなく、せいぜい、マウスが温まるくらいのことである。

 そもそも1950年代や60年代の遊びといえば、肉体の触れあうものがほとんどだった。鬼ごっこ、相撲、野球、缶蹴り……互いの体温や息づかい、命の鼓動が伝わり、ときにはぬくもりを、ときには怒りを感じた。そして、そこに何が生まれるのかわからない、ドキドキ感があった。

 閑話休題。かつて、新聞やテレビ報道にはブリキの肌触りがあった。活字や映像から体温の立ち上ることがあった。権力者の横暴には断固として怒り、心温まる市井の「いい話」には涙をこらえながら書く。そんな記者の体温が、読み、見る側にも自然に伝わってきた。でも、いまは、ほとんどない。事象・現象が無味乾燥な形で提示されるばかりだ。
 
 新年を迎えても、世界では「不自然死」が絶えない。「自爆テロで数十人死亡」といったニュースが、あたかもとるにたらない出来事であるかのような扱いで報道される。死者に何らの思いを抱かずに書かれた記事が、読者・視聴者の心に届くはずもない。いつしか多くの市民にとって、他国での戦争は、遠い世界の事象であり、手触りのない、その意味ではゲームの中のことと同一化していく。
 
 しかも、その一方で、マスコミ報道には、時折、権力の思惑という味付けがなされる。正義の味方という立ち位置からの、怒りによる政治批判ではなく、なにがしかの自己利益に基づいた報道。「小沢疑惑」キャンペーンや、一部の新聞・テレビによる民主党政権批判にも、その匂いを感じる。こんな時代、ジャーナリストとして自らに言い聞かせる。大切にしよう――涙、笑い、怒り、ぬくもり、そして愛。(北村肇)

全国紙と現政権の間合い-元旦の「社説」を読む

 新聞の「社説」は読まれていない。三十年の記者経験に基づき断言する。だが、その新聞社の立ち位置を知るには「社説」を読むのが手っ取り早い。本来、編集権は何ものからも自由であるべきだ。しかし遺憾ながら、ほとんどの新聞社では経営側が編集権を握っている。だから、企業として政治権力とどういう間合いをとろうとしているのかが、「社説」を読めば大体、わかるのである。

 さて二〇一〇年元旦の「社説」。民主党政権の評価、とりわけ日米関係のあり方が中心になると予測していた。案の定、「提言する新聞」を標榜する『読売新聞』は、かなり露骨に鳩山連立政権をたたいた。「連立政権維持を優先する民主党の小沢幹事長らの思惑により、日米同盟の危機が指摘される事態になっている」と断じたうえで、「言うまでもなく、日米同盟は日本の安全保障の生命線だ」「それなのに、東アジア共同体構想を掲げ、米国離れを志向する鳩山首相の言動は極めて危うい」「米国との同盟関係を薄めて、対等な関係を築くというのは、現実的な選択ではない」とたたみかける。渡邉恒雄氏が率いる新聞社だから当然と言えば当然だが、次の文章にはさすがにぞっとした。「民主主義、人権尊重、思想・信条の自由という普遍的価値を共有するアメリカとの関係強化を、アジア・太平洋の平和と安定の基礎に置く視点が不可欠である」。これは、憲法の否定する集団的自衛権の行使を認め、米国の軍事的世界戦略に日本も積極的に加わるべきだという主張にほかならない。
『読売』のまえのめりに比べれば、『産経新聞』の「忘れてならないのは、日本の安全だ。米軍の抑止力がこの国の平和と繁栄を維持してきた。その抑止力が損なわれた場合、空白が生ずる。乗じる勢力も出てくる」はまだ、穏やかな感じすらする(「論説委員長の「年のはじめに」)。

 もっとも愕然としたのは、『朝日新聞』の 「より大きな日米の物語を」と題した「社説」だ。「北朝鮮は核保有を宣言し、中国の軍事増強も懸念される。すぐに確かな地域安全保障の仕組みができる展望もない」とあれば、どう読んでも、アジア重視の鳩山外交に対する批判だ。そしてこんな一文が目に飛び込む。「『アジアかアメリカか』の二者択一さながらの問題提起は正しくない。むしろ日本の課題は、アジアのために米国との紐帯を役立てる外交力である」。いかにも”朝日的”なもってまわった言い方だが、要は、集団的自衛権の行使により米国と連携しアジアに対する軍事的プレゼンスをもとうということだ。「『朝日』の『読売』化」が言われて久しいが、ここまできたかの感がある。
『毎日新聞』は主張したいことがよくわからないので取り上げようがない。

 全国紙の現状に寒々とする中で、『琉球新報』の「社説」は清々しかった。「核を持たない日本の安全を、米国が自国の核で保障するという考え方は、もっともらしく聞こえるが、核攻撃を誘発することにもなりかねない。ひとたび戦いが始まれば、間違いなく住民は巻き込まれる。被爆の惨劇が再来しない保証はどこにもないだろう」。その通りだ。主見出しは「軍の論理より 民の尊厳守る年」、サブ見出しは「犠牲の上に立つ『同盟』なし」である。

小沢一郎氏にはなぜか、権力者特有の生臭さがない

 不思議な政治家だ。小沢一郎氏には権力者特有の生臭さを感じない。若くして自民党幹事長に就任、その後は”壊し屋”の異名通りに政界を揺さぶり続けた。政権奪取した今は、「鳩山由紀夫氏が消えても民主党は残るが、小沢氏なしでは崩壊する」とさえ言われる。これほどの力を持ちながら、どこか淡色感がある。

 岩手県出身の小沢氏は自らをアテルイになぞらえる。平安時代初期、蝦夷の軍事指導者アテルイは朝廷軍と戦い、最後は処刑された。つまり小沢氏は、本心はともかく、「賊軍の立ち位置を失っていない」と公言する数少ない政治家といえよう。敗者の美学に憧れる者は生臭さを嫌う。彼もその一人なのかもしれない。批判すべき点はいくらでもあるが全否定する気になれないのは、その立ち位置にある。

 本誌05年1月21日号、編集委員本多勝一による小沢インタビューの一部を再録する。

本多 小沢さんはアテルイの末裔だそうですね。その意味では、日本国憲法の1条から8条あたりに対して違和感があるのかと思っていたのですが(以下略)。
小沢 僕らの先祖は130年前の明治維新のときも賊軍の汚名をきせられた。賊軍だから靖国神社にも祀られていない。それにもかかわらず、今も勤王の志を抱いているのだから、たいしたものだ。先祖はその昔「俘囚」と呼ばれ、大和朝廷に最後まで反抗した。アテルイは1200年前だ。僕は、末裔として反骨精神が強いと思うが、ものの考え方は論理的、合理的だ。

 そういえば、小沢氏が師事した田中角栄氏にも、どこかしら庶民の反骨精神を感じた。その精神は歪んだ形で大邸宅や錦鯉につながっていき地に墜ちることになる。しかし、ある時期までは「今太閤」として圧倒的な国民人気を誇っていた。

 それに比べ、小沢氏は常に不人気な政治家であり続けている。田中氏と異なりマスコミのうけも悪い。確かに、あのぶっきらぼうな態度はいただけない。記者も人間だ。むろん望ましくはないが、不快な印象を持つと筆に影響するのが現実である。とはいえ、新聞・テレビの報道は目に余る。今回の一連の事件でも、検察のリークと思える記事の氾濫は常軌を逸している。
 
 国策捜査ならぬ国策報道が「賊軍」を追い込む――ロッキード事件もしかり、鈴木宗男氏の事件もしかり、相も変わらぬいつもの図式。(北村肇)