編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

かつて、新聞やテレビ報道にはブリキの玩具の肌触りがあった

 ブリキの玩具。結構、長い間、静かな人気を保っている。私にとっては、その手触りがなつかしい。触れたとき、最初は冷たいのにじわりと温かみを増してくる。体温が伝わるからだ。ネジを巻く。カタカタと動き出す自動車。ギュッギュと泳ぎ始める金魚。私の体温をもったそれらは、確かに私の分身である。

 かといって、パソコンゲームを頭から否定する気はない。子どもや若者が熱中するだけの魅力があるのだろうし、私自身、いい歳をしてインベーダーゲームにはまったこともある。ただブリキの玩具とは違う。パソコンはそれ自体が完結した機械だ。ある意味、人間の介入は許さない。ロールプレイゲームにしても、何かを育成するゲームにしても、所詮は計算されたソフトの枠内のことでしかない。パソコンが人間の分身になることはありえない。体温の伝わることはなく、せいぜい、マウスが温まるくらいのことである。

 そもそも1950年代や60年代の遊びといえば、肉体の触れあうものがほとんどだった。鬼ごっこ、相撲、野球、缶蹴り……互いの体温や息づかい、命の鼓動が伝わり、ときにはぬくもりを、ときには怒りを感じた。そして、そこに何が生まれるのかわからない、ドキドキ感があった。

 閑話休題。かつて、新聞やテレビ報道にはブリキの肌触りがあった。活字や映像から体温の立ち上ることがあった。権力者の横暴には断固として怒り、心温まる市井の「いい話」には涙をこらえながら書く。そんな記者の体温が、読み、見る側にも自然に伝わってきた。でも、いまは、ほとんどない。事象・現象が無味乾燥な形で提示されるばかりだ。
 
 新年を迎えても、世界では「不自然死」が絶えない。「自爆テロで数十人死亡」といったニュースが、あたかもとるにたらない出来事であるかのような扱いで報道される。死者に何らの思いを抱かずに書かれた記事が、読者・視聴者の心に届くはずもない。いつしか多くの市民にとって、他国での戦争は、遠い世界の事象であり、手触りのない、その意味ではゲームの中のことと同一化していく。
 
 しかも、その一方で、マスコミ報道には、時折、権力の思惑という味付けがなされる。正義の味方という立ち位置からの、怒りによる政治批判ではなく、なにがしかの自己利益に基づいた報道。「小沢疑惑」キャンペーンや、一部の新聞・テレビによる民主党政権批判にも、その匂いを感じる。こんな時代、ジャーナリストとして自らに言い聞かせる。大切にしよう――涙、笑い、怒り、ぬくもり、そして愛。(北村肇)