編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

「労働者派遣法改正」でも裏切った民主党は、ポイ捨て政権になるつもりか

 厚労省がせっせとインフルエンザの空騒ぎを演出していたころ、マスクの価格が暴騰した。そもそも品薄で買うこと自体が難しかった。やむをえず、薬局で見かけたら大量購入に走った。いまは価格も落ち着き、いつでもどこでも買える。で、ふと思う。一昔前は、ガーゼのマスクを何度も洗っては使っていたよな――。

 使い捨て文化にどっぷりとはまりこんでいる。いまは「貼るカイロ」が当たり前だが、子どもころは白金懐炉という優れものがあった。必需品のウエットティッシュも、雑巾があれば本当はいらない。「何度も使う」という発想をどこかに置き忘れてしまった。「便利」優先時代に毒されている自分に気づき、はっとする。

 派遣労働者は企業にとって紙マスクやティッシュにすぎない。用が済んだらポイ捨て――。「こんな事態を生んだ原因には労働者派遣法がある」と主張していた民主党が政権の座についた。大いに期待していたが、どんどん改悪案に向かっていった。

 09年6月、当時は野党だった民主・社民・国民新党の3党が国会に提出した改正案には、労働者保護の姿勢が見られた。「登録型派遣の禁止、製造業派遣・日雇い派遣の廃止、派遣先責任の強化」などが柱に据えられた。

 これに対し自公政権が08年11月に臨時国会に提出していた改正案は、現行法をほぼ踏襲したものだった。そして09年8月に新政権誕生。当然、3党案を基盤にした法案が今国会に提出されるものと思っていた。

 ところが、本誌今週号で特集したように、厚生労働省の諮問機関である労働政策審議会は09年12月、3党案からは大きく後退する内容の報告を出した。そもそも部会長の清家篤慶應義塾長は「今回、新たに議論を行なうに当たっても、まずこれ(旧政府案)を尊重していただきたい」と切り出したという。

 報告内容に沿った形になったらどうなるのか。たとえば登録型派遣は禁止するが、常用雇用については例外とされている。だが常用雇用の定義が示されていないので、このままでは企業の裁量に任されることになり、真の意味での「常用」にならない危険性がある。

 労政審の報告に沿った法案が提出される見通しだ。鳩山首相は、有権者との約束を守らなければポイ捨て政権になると、どこまで認識していることやら。(北村肇)

「いのち」を粗末にした企業のなれの果て、それがトヨタだ

 トヨタの崩壊は日本の崩壊につながる。経済面のことを言っているのではない。トヨタは、効率を優先し株主を優遇し、「いのち」を粗末にしてきた。そのなれの果てが今の姿だ。この国もまた、新自由主義を導入し大企業を優遇し米国に隷属し、「いのち」を粗末にしてきた。落日トヨタとみごとに重なる。

「顧客第一が経営理念」。豊田章男社長は記者会見で強調した。この期に及んで、ブレーキの不具合に対し「踏み増せば止まる」と経営幹部が漏らしてしまう企業。「車はいのちを乗せるもの」という認識も、安全をすべてに最優先させる覚悟もあるとは思えない。トップのお題目は白々しく聞こえるばかりだ。

 愛知を中心に中部地方では圧倒的な影響力を誇る『中日新聞』。かつては「トヨタ批判をしない新聞」と批判的にとらえられたこともあるが、ここ数年、同社への厳しい記事が目立ち、注目を集めている。『中日新聞』東京本社発行の『東京新聞』2月12日朝刊。前日から始まった連載企画「崩れた信頼 トヨタリコール問題」に次のような一節があった。

「トヨタは拡大期に車種数を増やし、新車の開発期間も5~6年から3~4年に短縮した。華やかな新車が続々と登場する裏で『現場には余裕がなくなっている』(開発担当者)。お家芸のコスト削減は開発現場にも及び『試作車づくりの回数が減った代わりに、図面上での確認が増えた』と明かす。新型プリウスも、こうした環境の下で開発された。ブレーキ不具合について、開発の第一線は『見落とし』の可能性を否定しない」

 全国紙に比べ、『中日新聞』の記者はよりトヨタの内情に通じているはずだ。コスト削減に走るあまり安全がおろそかにされたという指摘は、的を外していないだろう。それが開発現場にまで影を落としていたとあっては、顧客第一主義も世界一の技術も、いまのトヨタには画餅にすぎない。

 トヨタはまた、顧客だけではなく従業員も粗末に扱った。カンバン方式とはつまり人間を機械のパーツにすることにほかならない。取り替え可能な意思を持たないパーツ。それこそがトヨタの高収益をもたらしたのだ。

 一方で、一連のトヨタたたきの背景には米国の思惑があるとの見方も出ている。自国の利益最優先、世界でも名だたる「いのち」を粗末にする国だ。あってもおかしくはない。トヨタ神話、日本神話崩壊の先に、米国のなれの果ての姿が見えてくる。(北村肇)

「つくられた龍馬」にだまされないヘソ曲がりになる

 源義経、織田信長、そして坂本龍馬――歴史上の「ヒーロー」に共通するもの。それは「非業の死」や「無念の死」だ。志半ばで斃れることで、一気に伝説化する。秀吉や家康を演じるのは主として個性的な俳優だが、先の3人はイケメンタレントの場合が多い。悲劇をもとにドラマ性を追求するからだろう。

 NHKの『龍馬伝』が予想以上の視聴率を稼いでいる。現存する写真と福山雅治ではかなり違うが、まあ、そんなことはどうでもいい。所詮は大河ドラマ。そう割り切ってはいたものの、大型書店で『坂の上の雲』とともに龍馬本がうずたかく積まれているのを見ると、いささかざわざわとした気分に襲われる。

 英雄不在の時代。これだけ画一的な教育が行なわれ、横並びの美徳が蔓延しては、どこか突出した傑物が出現する余地は極めて少ない。歴史上の人物やアニメの主人公に夢を託すのは必然の流れだ。そして、それを悪利用する輩が必ず出てくる。

 本誌今週号は、「龍馬大絶賛」に水を差す特集を展開した。歴史をひもとけば、幕藩体制維持派と倒幕派の権力闘争に参加した一人にすぎないともいえる。また武器商人の一面もある。国を憂い国を思う純粋な革命志士なのか、利にさとい商売人なのか、判断に迷う人物というのが実態だ。

 だが、『坂の上の雲』の秋山兄弟もそうだが、龍馬は私利私欲のない英雄として描かれる。その先には、「明治時代はよかった」「あのころの日本に戻ろう」「世界の超一流国を目指そう」という路線が敷かれている。一歩、間違えれば「大日本帝国の夢よ再び」になりかねない。

 話がずれるが、漫画『島耕作』の変質ぶりは凄まじい。課長くらいまではサラリーマン社会の悲哀がそこそこ描かれていたが、社長に就任したいまは、新自由主義の先兵と化している。とともに自民党のスポークスマン役を買っている。ここまでくると「漫画のことだから」と看過するわけにもいかない。

 龍馬に戻るが、原稿依頼しても「関心がない」と何人かの方に断られた。中には「龍馬は嫌いではない」という人もいた。確かに革命家の匂いはもっている。実は、私も心のどこかで「つくられた龍馬」を受け入れたりしている。だから、少しはヘソ曲がりにならないと、ついつい騙されてしまう。(北村肇)

小沢一郎氏と地検、どちらが「不正義」かを判断するのは、マスコミではなく市民

「正義」の定義は難しい。何しろ、米国にすればベトナム戦争もイラク戦争も正義となってしまう。だが、「不正義」はそれなりに言葉で表現できる気もする。「『力』によって他者を虐げ、あるいは私利私欲を図る行為」――。この解釈に従ったとき、小沢一郎氏をめぐる東京地検特捜部の捜査は「不正義」だろうか。

 特捜部が「力」を持っているのは間違いない。仮に国策捜査の色合いが濃ければ「他者を虐げ」につながる。しかし「私利私欲」があるとは思えない。では小沢氏はどうか。ゼネコンに献金を強制していたことが明らかになれば不正義は避けられない。が、政治改革を目指しての集金なら「私利私欲」と言い切るのは無理がある。政治にはカネがかかる。その現実を捨象しての「正義」は表層的なお題目でしかないからだ。

 小沢氏の師事した田中角栄氏が単なるカネの亡者でなかったことは、その後、さまざまな書籍で浮き彫りになりつつある。ロッキード事件当時、検察は「正義」だった。いきおい、田中氏には「不正義」のレッテルが張られた。だが、その見立てが正しかったのかどうか、まだまだ検証が必要だ。

 リクルート事件もまた再検証が迫られている。江副浩正氏の近著『江副浩正の真実』(中央公論新社)は衝撃的な本だ。地検特捜部が、どのように自分たちに都合のいい調書を作成していくのか、その実態は佐藤優氏の『国家の罠』(新潮社)があますことなく描いた。しかし、江副氏の体験談はさらに詳細である。それも驚きだったが、何より私が愕然としたのは、「リクルート事件は新聞がつくり、地検は事件として立件せざるをえなかった」という告発である。

 この事件をめぐる報道は、新聞社の社会部記者には代々、受け継がれる、調査報道中の調査報道。『朝日新聞』記者のジャーナリスト魂が、竹下登内閣を崩壊させ政治改革に結びつけたとして、高い評価を受けた「真の特ダネ」なのだ。だが、江副氏の記述が事実なら、本来なら事件にならないことを事件にしてしまった一番の責任はメディアにある。「正義の味方」という錦の御旗を背負っている地検は、報道にあおられ、事件をつくらざるをえなかったという構図だ。

 ロッキード事件以降、「角栄・金丸・小沢」対特捜部の戦いは、ある種の正義と正義のぶつかりあいだ。ではどちらが「不正義」なのか、最後の判定を下すのは、マスコミではなく主権者たる私たち市民・国民である。(北村肇)