「暮らしにひそむ天皇制」を見て見ぬふりの「反天皇制運動」ではだめだ
2010年4月30日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
たまたま「ウィキペディア」で『週刊金曜日』の項をみていたら、私が「天皇制を容認した」ことに批判があると書かれていた。おそらく、チャンネル桜の番組で、「なぜこれだけ長く天皇制が続いているのか、そのことを考えなくてはならない」と発言したことを指しているのだろう。そもそも、「右翼的」とされる同局に出ること自体に、「仲間」の陣営から批判を受けてきた。書き込んだ人も同様の立場と思う。「菊タブー」は左翼・革新側にもあることを改めて感じる。
天皇制について語るとき、「直ちに廃止すべき」「昭和天皇の戦争責任を許さない」と主張していれば文句を言われることはない。だが、そこにとどまる限り廃止への道は遠い。2000年の重みをもっと深刻に考えるべきだ。
もし「まったく意味のない制度」と市民が考えていたなら、とうに消えているはずである。政治利用された時代も、天皇制の歴史の中でそう長くはない。むしろ、明治時代以降の天皇制が異質なのだ。天皇は「日本人」の精神に深く染み込んでしまっている――この事実を冷静に見据え、解釈しなければ何も始まらない。
「居間で上座に座るのはお父さん」という家庭があれば、そこにはすでに天皇制が浸潤している。混合名簿を使っていない学校は天皇制を包含している。「委員長の言葉は絶対」という労働組合は天皇制そのもの。「慈父賢母」の根底にあるのは天皇制。そういうことなのだ。そして、多くの市民がそれらを受け入れている現実――。
宗教的、文化的な面での検証も深めなくてはならない。天皇家は「巫女」の役割を負いつづけているのか、「日本固有の文化」の伝承者として容認されてきたのか。これらに解答を得たうえで、「日本人」が描いている「天皇像」を分析する必要がある。
このような実証的研究はさまざまに行なわれてきた。だが、反天皇制の運動は、どちらかというと「昭和天皇の戦争責任」にせばめられてきた感がある。だから、昭和が終わった時点で、運動の高揚感が薄れたかのような印象が社会を覆った。一方で、直接、戦争責任を負わない立場にいる「平成の天皇」のもと、ますます天皇制はじんわりと社会に染み込んでいった。
政治性を帯びた天皇制に焦点をあわせるばかりで、暮らしにひそむそれを見て見ぬふりの「反天皇制運動」は、空念仏に終わってしまう可能性がある。(北村肇)