編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

本誌は創刊800号を迎えました

「嘘よりも八町多い江戸の町」という川柳がある。江戸の町数が八百八町だったことを「嘘八百」にひっかけたものだ。もっとも町の数は正確ではなく、数の多いことを表す「八」を象徴的に使ったのだろう。本誌は今号が創刊800号。こちらは「真実と事実」を積み上げた800号。総ページ数はゆうに5万を超える。

 過日、新潟読者会主催のシンポジウムに参加した際、「創刊からの読者」という方にプレゼントをいただいた。手作りのキンカン甘露煮、新潟特産のチマキ、それにスミレの花。「春の野にすみれ摘みにと来し我そ 野をなつかしみ一夜寝にける」という山部赤人の歌が添えられていた。温かい心遣いに感謝、感激。

 編集長になって6年余。根っからの図々しい神経の持ち主とは言え、くじけそうになることもままある。そんなときは決まって、本誌にかける読者の熱い思いに叱咤されてきた。「八」は末広がりの数字でもある。みなさんのお力を借りつつ、スミレを慈しむ心を失わず、闘う気概をさらに広げる覚悟です。これからもよろしくお願いします。(北村肇)

名ばかり新党の実態が明らかになる“選挙後”への不安感

 天気予報が以前より当たる。技術の進歩か民間企業に負けまいと気象庁が頑張っているのか理由はわからない。一方、外れまくりなのが「政局予報」だ。かつては私も自信があった。議員秘書などの”予報士”から情報を集め分析すれば高確率で当たった。ところが今は、予報士の見通し自体が狂ってしまうのだ。

 次々と生まれる新党についても「想定外」が多かった。与謝野馨氏や舛添要一氏は自民党にとどまるはずだった、平沼赳夫氏は別のメンバーで立ち上げるはずだった、みんなの党の支持率はそれほど上がらないだろう、などなど。予測が外れる理由として、シナリオの書ける、力のある政治家がいなくなったため、とよく言われる。

 確かに、田中角栄氏や中曽根康弘氏が権勢をふるっていたころは、彼らの意向さえ把握できれば、大きく見通しを間違えることはなかった。竹下登氏にもそうした力があった。だが最近は、良きにつけ悪しきにつけ、絶対権力を握る政治家がいない。船頭が何人もいるため、船がどちらに進むのか、だれ一人確固とした見通しを立てられない。

 そのことは事実としても、別の要因もある。議員が、市民・国民の意識を読めなくなっているのだ。「小泉郵政選挙大勝」も「鳩山民主党大勝」も永田町では驚きをもってむかえられた。従来の常識的な票読みからは出てこない数字だったからだ。私の分析は「有権者の1割が既得権破壊に走った」である。
 
 いわゆるロストゼネレーション世代を中心に、「自分たちが貧困で、それを脱却する機会すら奪われているのは、既得権益を手放さない連中がいるからだ」という怨念が高まっている。小泉氏の「自民党をぶっ壊す」や鳩山氏の「政権交代」に投じられた1票には、その怨念がこもっていた。
 
 そうした流れは続いており、今回の参院選では、鳩山政権も同じ穴の狢と見切った票が一定程度、新党に流れるだろう。だが新党は、みんなの党も含めいずれも既得権者の集まりにすぎない。とても「1割」の受け皿になりようはないのだ。“名ばかり新党”の実態に気づいたとき、「1割」の勢力はどこに向かうのか。
 
 どんな結果になるにせよ、選挙後、永田町は政界再編の大きな渦にのまれていくだろう。そして、それは市民の意識はそっちのけにした、「既得権の分配」という枠内で進むはずだ。そのとき、「1割」がどんな「破壊」を目指すのか、ここに大きな不安を感じる(北村肇)

「死刑」に市民を関与させる残忍無比な裁判員制度

 袴田事件を題材にした映画『BOX 袴田事件 命とは』を観た裁判員は、果たして死刑判決に関与できるだろうか。1966年に静岡県で起きた強盗殺人放火事件の”犯人”とされた袴田巌さんは一貫して無実を訴えている。だが80年に死刑判決が確定。弁護団は再審請求したが08年に最高裁は棄却。直ちに第二次再審請求が静岡地裁に出された。

 本誌も典型的な冤罪として何度か取り上げてきた。死刑判決に関わり、判決言い渡しの7ヶ月後に辞職した熊本典道元裁判官が07年、「彼は無罪だ」と表明し、話題にもなった。作品では、いい加減な捜査や自白の強要ぶりが、袴田さんと熊本さんを軸に克明に描かれている。冤罪どころか警察による意図的なでっち上げではないか、という疑いも暗示される。死刑という制度の危うさが、くっきりと浮かび上がる映画だ。

「足利事件」の冤罪被害者、菅家利和さんは無期懲役刑から生還した。もし死刑判決が出され執行されていたら、と考えると身の毛がよだつ。92年に発生した「飯塚女児2人誘拐殺人事件」で、やはりDNA鑑定をもとに逮捕され死刑判決を受けた久間三千年さんは、「足利事件」が問題になっているさなかに刑場の露と消えた。冤罪を主張してきた弁護団がDNA再鑑定を求めていたにもかかわらずだ。

 人は人を裁けるのか――。答えのない煩悶の中から人類がつくりだしたのは、人を裁くための「法」だった。だが「法」を扱うのは人であり、「法」は人によっても、人を支配する権力によっても、ぬえのような存在を余儀なくされる。かくして「人は人を裁けるのか」という難問はちゅうぶらりんのままとなる。

 そこで、「法」を不動のものとするため、裁判官は「人ではない」ことを要請された。週刊誌は読まず、ワイドショーは見ず、ということを実践している裁判官もいるという。血や涙とは肉とは無縁の「裁判機械」として「法」を解釈するためだ。

 死刑判決を出した裁判官が、なぜ精神の均衡を保てるのか。それは「機械」に徹するからだ。逆に言えば、そのような人間にしか務まらない。だが、たまたま抽選に当たった裁判員は血も涙もある人間だ。彼や、彼女が、人一人の命を奪う、しかも常に冤罪の危険性を包含する死刑に関与したとき、どれだけの精神的負荷を負うことか計り知れない。そしてそのケアは一体、だれがしてくれるのか。この観点も忘れられたまま、制度は始まった。

 死刑と同様、裁判員制度もまた残忍無比な制度である。(北村肇)