編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

スナック菓子の最大・最悪の副作用とは何か

 幸い、現時点で、私の周りにはいない。ポテトチップスやかっぱえびせんを常時、引き出しに入れ、時折、パリパリ、ボリボリと食べる人。むろん、そのことで蔑視をしたり、人格を否定する気はない。ただ、意志が弱いんだなとは感じるし、電車内での化粧と同じくらい、できれば目をそらしたくなる光景ではある。

 いや、こんな持って回った言い方はやめ思い切って叫んでしまおう。スナック菓子は人間の食べる物ではない。しかし……と逆説の接続詞を使うところが、われながらだらしない。実はたまにビールのつまみとして重宝だったりするからだ。まあ、「しょっちゅう食べる物ではない」をとりあえずの結論に。

 本誌今週号で「スナック菓子のコワーイ話」を特集した。専門家によれば、ポテトチップスなどのスナック菓子はマイルドドラッグだという。麻薬取締法の対象となるヘロイン、マリファナなどがハードドラッグ、嗜好品だが大量に摂取すると健康を害するアルコール、ニコチンなどがソフトドラッグ。それらに比べれば「まだまし」とはいえ、スナック菓子は依存症を引き起こし、しかも肥満に結びつく危険性が多分にある。

 さらに添加物の問題もある。塩分や糖分を過剰に摂取することになり、子どもの腎臓病や糖尿病を引き起こすリスクがあるというのだから、「コワーイ」話だ。発ガン物質が含まれているケースもあるという。詳細については特集をみていただきたい。

 スナック菓子に代表される「簡単食品」は、現代人にとって欠かせない存在になっている。大きな理由は、時間が節約できるからだ。簡単に空腹をいやすことができ、簡単に栄養が取れ(実際は怪しいが)、何よりも簡単に入手できる。おやつを自分でつくるとなったら、かなりの手間暇がかかる。それはもったいない。こうした、何ごとにつけても「手をかける」時間を惜しむ点では、私も人後に落ちない。
 
 では、浮いた時間を何に使っているのかと考えると、明確な答えが見つからない。そもそも、「食べる」という行為は生命維持だけではなく「快感」に結びつくはずだ。であるなら、その快感を得るための時間と、簡単食品によって浮かした時間との関係はどうなるのか。あれこれ思いを巡らせていると、一つの結論に達する。現代人は何が本当に幸せなのか考える余裕すら失っている。
 
 これぞスナック菓子最大の副作用。こじつけすぎかな。(北村肇)

民主党代表選で小沢惨敗をもたらしたマスメディアは絶滅危惧種

 新聞がここまで落ち込んだ要因の一つに、空疎な「客観」「公正・中立」を掲げ、「主張」を失ったことがある。だが、最近はさらに腐敗の度を深め、マッチポンプ役を平然とした態度でこなしている。典型は世論調査だ。特定の方向に世論を引きずるため「多数決原理」を利用しつつ悪辣な宣伝活動をしているのだ。
 
 最も影響力の強い『朝日新聞』の「主張」は日米同盟の堅持であり、そこに反旗を翻す小沢一郎氏や鳩山由紀夫氏は批判対象となる。だが、事実に基づかない主張はプロパガンダにすぎない。たとえば、辺野古沖への米軍基地移転推進が「国益」にかなう事実をどれだけわかりやすく読者に提示したのか。これまでも何度か指摘してきたが、米国に都合のいい報道が目立つばかりだ。
 
 政治とカネの問題に関しても、「小沢氏はカネに汚い」という印象を植え付けるような報道が中心で、法に抵触した事実を独自に抉り出したわけではない。むしろ、本来の同紙なら、東京地検の行き過ぎた捜査を批判すべきなのに、事実と無関係の「小沢つぶし」は目に余る。
 
 そして民主党代表選。『朝日新聞』を始めとした大手紙は、何度も世論調査を実施し、そのたびに「小沢氏とカネ」を強調した。紙面であおり、世論調査を行ない、その結果でまたあおる。代表選当日の『朝日』社説には言葉を失った。「小沢氏の立候補は理解しにくい。……最高指導者たろうとするにしては、けじめがなさすぎるのではないか」。同紙はこれも「主張」と言うのだろうが、アジテーション以外の何物でもない。客観的に見て、多くの新聞は小沢氏の足を引っ張り続けた。これはもはやマスコミファッショだ。
 
 小選挙区制になり、国会議員はますます世論動向を気にするようになった。国会議員票が思ったより小沢氏に流れなかったのは、マスコミ報道を見て寝返った議員が多かったからだろう。地方議員やサポーターが菅氏を圧倒的に支持したのも、新聞やテレビの影響が大きかったことは間違いない。菅直人氏の勝利はマスメディアがもたらしたと言っても過言ではない。

 インターネット上では、むしろ小沢氏支持の世論が多数派だった。ネット情報を重視する人々からは、新聞やテレビという大マスコミは既得権者として見られている。そうしたメディアの報道が胡散臭く感じられたことによる小沢支持とも考えられる。とするならば、大マスコミが絶滅危惧種になるのは時間の問題ではないか。(北村肇)

「9.11事件」は、「だれか」が「何か」を隠蔽している

 今年も9月11日を迎える。「9・11事件」を考えるとき、どうしても「御巣鷹山・日航機事故」が頭に浮かぶ。墜落原因は隔壁破裂とされた。99%ありえない。かりにそれが原因なら、急速な気圧変化により乗客は意識を保つのが難しく、機内で書いたと見られる「遺書」の説明がつかない。専門家には常識だ。ボーイング社が直ちに「整備不良」と認めたのもおかしい。本来なら、自社の不利益を回避するため徹底的に戦うはずだ。それもまた米国企業の常識である。他にも首をひねらざるをえない謎が多々ある。

 何より、墜落直後、「墜ちた場所」についての発表がころころ変わった。社会部記者だった私は、たまたま別の取材班にいたため、直接、現場に向かうことはなかったが、当局の発表のたびに同僚が右往左往させられるさまを間近に見ていた。日本の優秀な官僚組織が墜落場所を間違えるなどありえない。報道各社を現場に行かせないための時間稼ぎが行なわれたと考えるのが筋だ。その間に何があったのか。いくつかの情報はあるが、推測を述べるわけにはいかない。ただ、経験上、「大きな力が背後に存在した」ことだけは、言い切ってもいいだろう。

 陰謀論とか謀略論とかいうだけで鼻白む人もいる。しかし、長年、取材現場にいると、そう認定するしかない事件とたびたび遭遇する。刑事事件の冤罪にまで広げれば、ケースはもっと多くなる。なぜ書かないのかと言われることも多い。記事にできないのは、最終的な裏付けがとれないからで、取材側の力量不足がある。だが、「権力」が総力をあげて隠蔽を図ったとき、その壁を崩すのが容易ではないのも現実だ。
 
「9・11」も公にされた”事実”にはあまりにも疑問点が多すぎる。時間がたつにつれ、新たな謎が生まれ、当局発表の異様さを指摘する証言者も増えてきた。本誌今週号に掲載したインタビュー記事もぜひ、読んでいただきたい。事件から8年、「だれか」が「何か」を隠していることだけは、もはや疑いようがない。

 ジャーナリズムの原点は権力監視だ。それはつまり、「強い者」を相手にしたときは、まずもって疑ってかかる姿勢が欠かせない、ということでもある。官僚も政治家も、都合の悪いことは隠蔽に走る。ひどい場合には、でっち上げすら辞さない。私利私欲がからむときは、大体において、そうした動きは表面化する。しかし、たとえば「国益につながる」と彼ら、彼女らが信じ込んだときは、なかなかあぶりだすことができない。だからこそ、ジャーナリストにはもう一つ、欠かせないことがある。あきらめず、しつこく、真実を追求する姿勢である。(北村肇)

私怨と嫉妬のオーラにまとわれた民主党代表選は気色悪い

 この欄で多用している言葉の一つは「既視感」。既視感自体が既視感のようで、不感症になっていくのが怖いほどだ。自民党の派閥抗争が永田町をびっくり箱にしてしまい、それへの憤懣と怒りが生み出した民主党政権。それが一年もたたないうちに、またまた玩具箱をひっくり返してくれるとは――言葉もなし。

 いつから政治闘争の原動力が利権と怨恨だけになったのだろう。「だけ」と強調したのは、人間社会に利権や怨恨はつきものだから、それらがまったくない永田町を夢想したって始まらないからだ。でも、甘いと言われるかもしれないが、少しは理想や理念が闘争の原動力となる時代があったような気がする。

 田中角栄、福田赳夫、大平正芳――こういった政治家には野太いものを感じた。言わずもがなだが、彼らの思想や政策に賛同するものではない。ただ、私=常人とは違う「何か」を持っている。その規格外の存在感こそが一流の政治家たる所以だった。

「三角大福」の争いは現ナマの飛び交う生臭いもので、純然たる政策闘争ではなかった。しかし、それでもここ四半世紀のぶよぶよしたナマコのような戦いとは違い、どこかしら、腹の据わった武将同士のぶつかりあいという風情があったのだ。とともにというか、だからこそというか、派閥選挙に対する野党の批判も迫力があった。

 一連の「菅直人対小沢一郎」騒動は、自民党与党時代に何度も繰り返された学芸会と何一つ変わらない。貧困格差時代に円高、株安が加わり、市民・国民の不安は高まるばかりなのに、そんなことは二の次とばかりに代表選に走り回る。学芸会ではなく、ハツカミズミの運動会か。

 一方、政権奪取の好機であるはずの自民党は、かつての社会党や野党時代の民主党に比べても情けない限り。遠くから「民主党のバカ」と叫んでいるだけで、一向に動きだそうとしない。本来なら、今こそ「我が党の経済政策はこうだ。民主党に任せていては日本が滅びる」と立ち上がるときだろう。

 それにしても破天荒な政治家が減ったなとしみじみ思う。枠にはまりこじんまりとしたセンセイ同士が湿り気のある視線を投げかけ合う。いよいよこらえきれなくなると、徒党を組んで「敵」をつぶしにかかる。小物なのだ。「小・鳩・菅」みんな大差ない。嫉妬と私怨がオーラになってまとわりついている。気色悪い。(北村肇)