「9.11事件」は、「だれか」が「何か」を隠蔽している
2010年9月10日9:00AM|カテゴリー:一筆不乱|北村 肇
今年も9月11日を迎える。「9・11事件」を考えるとき、どうしても「御巣鷹山・日航機事故」が頭に浮かぶ。墜落原因は隔壁破裂とされた。99%ありえない。かりにそれが原因なら、急速な気圧変化により乗客は意識を保つのが難しく、機内で書いたと見られる「遺書」の説明がつかない。専門家には常識だ。ボーイング社が直ちに「整備不良」と認めたのもおかしい。本来なら、自社の不利益を回避するため徹底的に戦うはずだ。それもまた米国企業の常識である。他にも首をひねらざるをえない謎が多々ある。
何より、墜落直後、「墜ちた場所」についての発表がころころ変わった。社会部記者だった私は、たまたま別の取材班にいたため、直接、現場に向かうことはなかったが、当局の発表のたびに同僚が右往左往させられるさまを間近に見ていた。日本の優秀な官僚組織が墜落場所を間違えるなどありえない。報道各社を現場に行かせないための時間稼ぎが行なわれたと考えるのが筋だ。その間に何があったのか。いくつかの情報はあるが、推測を述べるわけにはいかない。ただ、経験上、「大きな力が背後に存在した」ことだけは、言い切ってもいいだろう。
陰謀論とか謀略論とかいうだけで鼻白む人もいる。しかし、長年、取材現場にいると、そう認定するしかない事件とたびたび遭遇する。刑事事件の冤罪にまで広げれば、ケースはもっと多くなる。なぜ書かないのかと言われることも多い。記事にできないのは、最終的な裏付けがとれないからで、取材側の力量不足がある。だが、「権力」が総力をあげて隠蔽を図ったとき、その壁を崩すのが容易ではないのも現実だ。
「9・11」も公にされた”事実”にはあまりにも疑問点が多すぎる。時間がたつにつれ、新たな謎が生まれ、当局発表の異様さを指摘する証言者も増えてきた。本誌今週号に掲載したインタビュー記事もぜひ、読んでいただきたい。事件から8年、「だれか」が「何か」を隠していることだけは、もはや疑いようがない。
ジャーナリズムの原点は権力監視だ。それはつまり、「強い者」を相手にしたときは、まずもって疑ってかかる姿勢が欠かせない、ということでもある。官僚も政治家も、都合の悪いことは隠蔽に走る。ひどい場合には、でっち上げすら辞さない。私利私欲がからむときは、大体において、そうした動きは表面化する。しかし、たとえば「国益につながる」と彼ら、彼女らが信じ込んだときは、なかなかあぶりだすことができない。だからこそ、ジャーナリストにはもう一つ、欠かせないことがある。あきらめず、しつこく、真実を追求する姿勢である。(北村肇)