編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

東京都で暴力団排除条例が施行される。

編集長後記

 一〇月一日から東京都で暴力団排除条例が施行される。これで暴力団排除運動は一つの節目を迎える。犯罪集団の摘発は重要だが、政治的不安定が続くのに警察国家化だけは着々と進むことに不快感を覚える。警察がここまで前に出てくるのかといえば、民主主義による統治の力や共同体の力が弱まっているからだろう。警察自身が共同体に解決能力がないと思わせるように恐怖心を煽っていることもある。政治の不安定や不信が続くことは安定や強さを求めがちになるから警察にとっては都合がよい傾向だ。

 暴排条例の問題は、個人まで規制対象にしていることだ。これはすべての人が警察を常に意識し協力する相互不信の社会へと誘導する。つまり “社会の警察化” を促進するものである。一九九八年に暴力団排除宣言をした東京都のパチンコ業界は今どうなっているか。警視庁OBを受けいれ、常に警察の協力を得ようとする組織構造がつくられている。暮らしに密接な権力者・警察の伸長こそ、もっと監視しなければならない。 (平井康嗣)

九月一九日の六万人反原発デモ

編集長後記

 九月一九日の六万人反原発デモ前の9・11一万人デモでは一二人が逮捕された。七人が釈放されたというが、平和的なデモ&パレードに警察が目くじらを立てて大量の逮捕者を出す行為はこの国の恥だ。警察(そして検察も)はそんなことに労力を割くなら、東京電力を捜査してほしい。

作業員の死亡事故、証拠隠滅等探せばいくらでもネタはあるだろう。まったく閉塞感を覚えることばかりだ。フーコーは社会の内部規律を一望監視施設と称し息苦しさの原因と指摘した(と私は解釈している)。

日本でも権力の線引きにより息苦しさが増し、私たちの去勢は加速している。芸人から路上を奪って首輪をつけ、灰色な境界を認めず社会風俗を破壊し、共通番号制を導入して納税者としての国民だけを許す。

市町村合併を繰り返し、血も通わない名称と行政区画で集落を線引きし直す。最近は強制避難民と自主避難民の分断を強いる。日本国民は気づかない「肩書き」を大量にはりつけられ、生かされている。天皇だけが永遠不変のごとくである。

(平井康嗣)

今週号には、徐裕行氏のインタビューを掲載している。

編集長後記

 今週号には、徐裕行氏のインタビューを掲載している。彼はかつての村井秀夫・オウム真理教(当時)幹部を東京・青山の総本部前で刺殺した人物だ。この刺殺事件は動機と背景をめぐってさまざまな憶測を呼んだ。そもそもオウムには謎が多い。村井氏の死により結果としてオウム関連事件の被害者遺族が望んでいる教団の真相解明にブラックボックスができてしまった。その徐氏は意外にも出所して以来、メディアに口を開くのは初めてだった。本人はどう思われようが構わないという様子。だが投げやりではなく紳士的であり、言葉も丁寧に選んで喋る。ただ刺殺に対する悔恨のそぶりもない。そのことに驚いた。テロリスト――という言葉が頭に浮かぶ。当時のオウムに対する世間の怒りや憎しみ。それを背中に受けた義憤だけで牛刀を握れるのか。彼が墓場まで持っていこうとしているものは間違いなく存在する。だがそれは墓場まで行くだろう。徐氏はロバート・B・パーカーの探偵スペンサーシリーズがもっとも好きな本だという。(平井康嗣)

震災・原発・放射能の特集を続け、気づけば半年。

編集長後記

 震災・原発・放射能の特集を続け、気づけば半年。脱原発を可視化した菅首相の退任もあり、この問題に誌面を大きく割く週刊誌も弊誌をのぞけば『AERA』と『週刊現代』くらいになったようだ。売れない主題を商業誌は扱わない。扱うメディアが少なくなれば原発推進を言い出すメディアも増えてくる。まるでシーソーだ。メディアが騒がなければ世間も騒がない。螺旋を描き問題意識は縮小していく。では報じる価値がなくなったのかと言えばそれは違う。調査報道への気概があれば、原発・放射能問題で伝えるべきことはまだ尽きない。

 今週号の特集は「原発と差別」。もっとも扱いたかった主題の一つだ。脱原発の是非を争うと、原発をなくすと電力が足りなくなるという争点に収れんされることが多い。しかし、ウラン鉱山や通常運転における被曝を誰かに押しつけて原発はようやく存在できる。このことこそが本当の争点だろう。私たちは見たくないものを遠くへ押しつけ、都合のよい世界に帰ってはいけないはずだ。 (平井康嗣)

原発事故が大公害を引き起こすとは知っていたが、二〇一一年に事故を起こすとは予測してはいなかった

 原発事故が大公害を引き起こすとは知っていたが、二〇一一年に事故を起こすとは予測してはいなかった。ただエビデンス(証拠)型であり予測に弱い科学の限界は自分なりに感じていた。だから高いリスクを抱えたままの原発は廃止すべきと考えていた。

科学技術についてそう考えたのは世界金融危機の二〇〇八年が契機だ。この時、数学や金融技術工学の秀才が作り上げてきた仕組みが虚構だと暴露された。彼らはマズい科学者の例に漏れず、過去の成功例をかき集め、自分と他者を洗脳することに腐心して、リスクを軽視した。そうして世界中に毒債権をばらまき、自ら破綻していった。

歴史主義を批判する哲学者カール・ポパーの言葉通りだった。その後、世界はリスクについて考えをあらためると私は楽観していたが、そうではなかった。リスクについて学習することを人は嫌う。

 ただ今回の原発事故後、リスクと向き合ってきた科学者たちの存在が広く知られた。市民科学者とも呼ばれている人たちである。

(平井康嗣)