編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

3・11後、頭にこびりつくものがある

 3・11後、頭にこびりつくものがある。
 これまで当然のように疑われもしなかった楽観的な考え方を問い直さなければならないという宿題だ。
 専門家のみならず市井の人びとにまでこれは突きつけられている。
 それは原発の有用性を疑うという程度の話ではない。

 反原発は原発に反対することを疑う。
 政治不信というならば、なぜ政治不信であることを疑わなければならない、そんなようなことだ。
 護憲派が護憲である理由も同じである。

 破壊後に来たる再生を受け止めるため、もっと考えろと、わたしはあせっている。
 思えば3・11以前から、この国の民主主義や自由は息苦しいと疑われ始めていた。
 その答えの一つは、たとえば国民主権ではなく議会主権に偏向していること、それらが招く過剰な法令遵守(強制)ではないか。
 ふりかえれば強制されずともだれもが納得する意思が日本国憲法に流れているはずだ。

 破壊する前提ではなく、むしろ護憲という引いた目線で憲法とは何かを考える必要がある。
 今週号をその第一歩としたい。

(平井康嗣)

二〇一二年四月

 二〇一二年四月。
 今この時期にも福島で暮らし続けている人たちは、移転をしようと思ってもそれが困難である人たちが少なくないようだ。
 持ち家、子どもの転校、移転先の就職口など、さまざまな理由で引っ越せず、あきらめた人が今も悩み続けている。
 低線量被曝を懸念する人たちは、どうにかこの人たちを避難させたいと考えている。

 しかしその一方で、このような移住の相談を受けているボランティアたちも悩んでいる。
 他者の人生を変えるようなことに口出しをしていいのかと。

 移住の次善策が一時保養、短期休養だ。
 一九八六年のチェルノブイリ原発事故後、日本各地でもサマーキャンプが実施された。
 今は甲府で暮らす福島出身のOさんは北海道に一時避難していた。
 そのときの受け入れ先が、今でもサマーキャンプを続けている女性だったという。
 やはり一カ月ほど北海道にいると、受け入れた女性の体調がみるみるよくなるそうだ。

 今、Oさんは移住相談の活動をしている。
 原発事故の教訓は静かに引き継がれている。

  (平井康嗣)

東京電力は放射性物質まき散らし事故によって東北の人びとを大移動させる公害をもたらしている

 東京電力は放射性物質まき散らし事故によって東北の人びとを大移動させる公害をもたらしている。
 だが、経営者の責任を問う空気にならないのは、なぜだろう。
「(死者の出ない)食中毒を起こした雪印乳業は、記者会見で経営者がつるし上げられ、潰された」(河合弘之弁護士)のに。

 そもそも、事故当初、当時の清水東電社長が姿を消したことを追及したのも米国の『ワシントン・ポスト』などだった。
 無責任な経営者に海外の記者は大騒ぎしたが、日本のメディアは関心を払わなかった。

『続・トヨタの正体』(弊社刊)で株式会社研究家の奥村宏さんが会社をサン付けで呼ぶのは日本だけでは、と指摘している。
「ミスター東電」と「東電さん」は意味が違う。
 ある経営者はサンドバッグとなるが、経営者の顔が見えない大企業には批判は鈍る。
 大企業への幻想はこれほど刷り込まれている。

 そのトヨタ自動車も今、米国で莫大な民事訴訟に見舞われている。
 もちろん日本のメディアさんは、ほとんど報道していないのだが。

  (平井康嗣)

私は一五年ほど前、『週刊金曜日』を初めて手に取ったときに、

 私は一五年ほど前、『週刊金曜日』を初めて手に取ったときに、
いくつかの点で面白い雑誌だと感心した。
それは読者からの投書の多さと、独自の特集と、「買ってはいけない」などの企業批判だった。

 当時、投書は表2といって、表紙のすぐ裏にも載っていた。
 ここまで投書を強調する雑誌など見たことはなかった。
 デザイン上の都合から、今は後ろに固めているが、投書は読者の顔が見える貴重なページ。

 最近はPTA役員の方からの「日の丸・君が代」問題の投書への反響が続いている。
 素直で冷静な問題提起が共感を生んだのだろう。

 悪法も法なり正義なりと、行政はいろいろと押しつけてくる。
 しかし守りたくない「法」はいくらでもある。そもそももはや法が多すぎて守りきれない。

 私は個別の法よりも日本国憲法を基本的に重視しているが、
本音では憲法のもっている理念のみに従おうとしている。
 国民主権、基本的人権の尊重、平和主義。その立場からしても、
不起立の自由は国歌斉唱より尊重されるのは当たり前だ。

(平井康嗣)