編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

今週号はひさびさの本誌編集委員以外による責任編集だ

編集長後記

 今週号はひさびさの本誌編集委員以外による責任編集だ。森達也の「オウム」、佐藤優の「沖縄と差別」以来、三度目か。編集長が編集責任を放棄しているだけじゃないのと言う読者もいるかもしれないが、これも編集のうちであります。

 さて責任編集者は本誌連載「自由と創造のためのレッスン」の廣瀬純。なぜ廣瀬純かと言えば、なにせ文章が、一字一句が真剣だからだ。週刊誌は一読して読めないと悪文と言われるが、彼の連載の二ページはつめこみすぎ、行間がありすぎ。さらっと読めない。しかしその文章にはいつもなぜか明るさや未来への本気の渇望を感じていた。そんな印象で昨年一〇月、初めて廣瀬純と逢った。ぼくが編集長になる前から連載していたし、彼はあまり東京にいないから。廣瀬純は言葉を慎重に選びながら「絶望」や「不可能」を口にした。それは偶然にも石牟礼道子さんや田中優子編集委員のまなざしの先にあるものと同じものらしかった。今、責任編集の原稿を読み、絶望と希望を己に突きつけている。(平井康嗣)

従軍「慰安婦」の問題を整理しよう

 今週号の特集を読む前に、従軍「慰安婦」、すなわち「軍事的性奴隷」の問題をちょっと整理しよう。

まず、この議論はほぼ決着がついているということ。それを安倍首相や石原慎太郎氏、片山さつき氏らが蒸し返している構図がある。「『慰安婦』問題」の議論については本誌二〇一二年九月一四日号掲載の西野瑠美子論文が論旨明快だ。まず、日本政府は中国人、フィリピン人、オランダ人など「慰安婦」強制連行は認めており、「強制性」を示す証拠もある。

問題は日本植民地下の朝鮮や台湾における「強制性」である。文書による証拠がないのである。「慰安婦」は就業詐欺などによって調達されたからだ。これについて、二〇〇七年三月五日参議院予算委員会で安倍氏も「間に入った業者が事実上強制していた広義の強制性はあった」と答弁している。

 しかしここから立場がわかれる。安倍氏や片山氏、彼らの支持者は、自らの意思で売買春をしたとし、政府の免罪を主張する。しかし国際社会ではそのような態度は通用しないのである。(平井康嗣)

最近、人殺しの心理が気になる

編集長後記

 最近、人殺しの心理が気になる。二月四日夕方、BBCの人気記事トップにクリス・カイルの死亡記事がリストされた。米海軍特殊部隊に所属した退役軍人のカイルは米国戦史上もっとも多く殺した狙撃兵。イラク従軍などによるその数は本人公表で二五五人、米軍当局は一六〇人と把握している。

 カイルは人を殺したことに後悔のない「ナチュラル・ボーン・キラー」らしかったが、『ディアハンター』始め帰還兵がPTSDなど心の病を抱えるという作品は米国でも文学、映画問わず散見される。カイルも体験記でベストセラー作家になったが、支援していたPTSDの帰還兵に射殺されたらしい。

 好戦的な安倍自民党は国防軍創設だと憲法改正をめざす。しかし軍隊の上官は実は兵士を戦場に送りたくないとしばしば言われる。部下に死んでほしくないからだし、人殺しになってほしくないからだろう。

日本でも戦争が産み出した芸術や文化は多い。とはいえ戦争や人殺しに関する芸術が豊かな国にはなってはほしくない。(平井康嗣)

沖縄県から四一市町村長、議長、県議らが政府への「直訴」にやってきた。

編集長後記

 今号でも記事にしているが、一月二七日、二八日、沖縄県から四一市町村長、議長、県議らが政府への「直訴」にやってきた。一つの県の頭をはる政治家がやってきた。知事以外全員だ。超党派。一言で言えば「一揆」である。

 取材に使っていたICレコーダーを現場で紛失したので一字一句再現できないのが誠に残念だが、二七日の日比谷野音での大集会では市長会長や県議会議長らが「沖縄は基地で食っていたのではない。米軍基地が経済発展の最大の阻害要因です」「沖縄県民はもう元には戻りません」「わたしたちは非暴力で民主的手続きでできることはすべてやりました」と明瞭に発言した。

 これほど真摯で心を熱くする政治家の演説を聞いたのは本当にひさしぶりのことである(以前は一九九九年夏に福島みずほ参院議員が盗聴法関連で国会で演説したときかもしれない)。弊誌でも繰り返し見解を述べているが、ダメなものはダメなのである。まだ取引できるという勘違いを安倍政権は繰り返してはならないだろう。 (平井康嗣)