編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

東京都議選は結局、投票率が低い中、自民党圧勝へつながった。

編集長後記

 東京都議選は結局、投票率が低い中、非自民派の受け皿もなく、組織票を持っている自民、公明、共産が安定的な得票をして自民党圧勝へつながった。民主の凋落ぶりは参院選の結果を予想させるだけに恐ろしい。政治は権力闘争なのだろうが、抑制・均衡する相手を失した組織、国は暴走するものだ。このタイミングで安倍氏が首相であるし。

 憲法にも三権分立とある。が、最高裁が米国型司法だからと、結局は立法府に釘を刺しきれずにきた。そして事実上、抑制の仕組みはなし崩しになった。一党独裁政権を続けてきた自民も派閥や三役で拮抗していたが、小泉政権以後壊れていく。自民には強い野党がいることによって与党が強くなるという発想はもはやないのだろうし、そもそも受け皿となる野党も不明だ。

 その流れで憲法九六条先行改正という発想が出てきた。最後の“政敵”憲法を骨抜きにして、与党の長が全権を握る仕組みの総仕上げだった。亭主関白ではなさそうな首相が、独裁を目指すことは不可解なのだが。 (平井康嗣)

今週の特集は各党憲法アンケート。

編集長後記

 今週の特集は各党憲法アンケート。これまで自民党はたいてい回答拒否だったが、改憲草案への批判もあるせいか丁寧な回答をくれた。各党見解について本記事で解釈の余白があるため読み解きを進めていただければ幸いです。

 また戦後史の再解釈が昨今、静かに広まり求められているようだ。たとえば『戦後史の正体』『永続敗戦論』『戦後日本の国家保守主義』などの本を私も興味深く読んだ。この根底にあるものは民主党政権の退陣が決定づけた革新勢力の壊滅的衰退と、日本維新の会のような右派的“改革”勢力の台頭が相まってのことではないだろうか。革新が護憲を掲げて実は非改革に位置づけられている意味を可視化していきたい。福島党首も存外、冷静に分析されていた。政治に刺激的な目新しさを求め続けることから脱する思想を私たちは持てるのだろうか。

 さて、参院選公示前夜の七月三日、東京・阿佐ヶ谷のロフトAにて、急遽『週刊金曜日』主催のイベントが決定しました。詳細は追ってお知らせします。

   (平井康嗣)

『点と線』という小説があった…

編集長後記

『点と線』という小説があったが、「慰安婦論争」などが典型的だけど最近の議論や関心のうごきをみていると、点(瞬間)だけに終始している。面(ひろがり)すらなく、しかも線(過去)の視点もない。瞬間的にインパクトのある膨大な情報に右往左往している。だからネット上に「キュレーター」なんてのも現れているが、今後はネットに紐づけできない「線」の情報をいかに伝えるかが問われるはずだ。

 憲法改定議論も現実味を増し、自民党が九六条改定を前面に掲げたことは、これまでになく憲法議論を豊かにしたと思う。多数決の横暴を防いで憲法の理念を護る規定を変えようと主張するのは、なんとわかりやすい多数決の暴力性だ。九条護憲論はスローガン化し思考停止になりがちだったが、今回は国家と国民という存在を振り返るきっかけとなった。理解すれば変えられない「法」が何か益々わかるはずだ。

 さて今週号の久野収特集は、日本の戦後民主主義と言論(の一端)を具体的に振り返る「線」になりえたと願いたい。 (平井康嗣)

自費出版『ゾウのつぶやき』というエッセー集を送ってくれた。

編集長後記

 定期購読者の阿部穣さんが、自費出版『ゾウのつぶやき』というエッセー集を送ってくれた。先日、お電話をいただき、遅ればせながら本を開いた。一九三〇年生まれで国鉄職員だった阿部さんの、軍国少年時代の話が、今の日本を考えると憂鬱になるわが身に染みる。以下、本文より。

〈当時、私の父は平壌府庁に勤める官吏だった。/戦争の長期化に伴い、わが帝国は朝鮮の人達を一段と愛国心に富む皇民に仕立て上げる必要に迫られていた。朝鮮総督府は、“皇国臣民の誓詞”なるものを制定し、学校や役所の朝礼などでみんなして唱和するよう強力に指導した。/小学生向けには “皇国臣民ノ誓イ”というのが作られ、みんな暗記させられた。/一、私共ハ大日本帝国臣民デアリマス。/二、私共ハ心ヲアワセテ天皇陛下ニ忠義ヲツクシマス。/三、私共ハ忍苦鍛錬シテ立派ナ強イ国民ニナリマス。〉

 つねに私たちは都合よく歴史を単純化している。これでも侵略戦争ではなかったと言い張る歴史修正主義者の首相は悪質だろう。 (平井康嗣)