編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

一五年前に『週刊金曜日』編集部に転がり込み、数カ月経つと、編集委員の担当を指示された。

編集長後記

 一五年前に『週刊金曜日』編集部に転がり込み、数カ月経つと、当時の松尾編集長に編集委員の担当を指示された。『週刊金曜日』には編集委員がいるが、それぞれ担当編集者がつくことになっている。連載コラムの編集を担当したり、一緒に企画を考えたりするのが基本的な仕事となっている。もちろんそれは最低限の話で、酒を呑んだりしながら相談し面白いことをやれれば最高である。

 当時は筑紫哲也さんと佐高信さんの担当編集者を変えることになっており、編集長判断で筑紫さんは小長光、佐高さんは私が担当となった。この判断は当事者も含めて編集部的にもだれもが妥当だったと考えているのではないだろうか。ということで、私は筑紫さんと接点が少ないままだった。『朝日ジャーナル』時代もリアルタイムではない。テレビの人、麻雀、煙草というなんとも貧しい印象だ。ただそんな私でも思うことは、やはりこの時代に筑紫さんがいない喪失感と残念さである。特集の原稿を見てつくづく思った。 (平井康嗣)

『週刊文春』が大手スーパー、イオンの「中国産偽装米」を報じ、店頭から撤去された。

編集長後記

『週刊文春』が大手スーパー、イオンの「中国産偽装米」を報じ、店頭から撤去された。イオンはこと食品(魚介)の放射能汚染の自主検査ではグリーンピースが一位に評価していた。『文春』側は「読者の知る権利、報道の自由を失わ」せる(一〇月一一日付『東京新聞』)と回答している。

 私人間で憲法上の人権が対立した場合、自由主義の立場からは基本的に他者の人権(自由)を侵害する自己の人権(報道の自由など)を正当化するとする主張は許容されるものではない。しかし民主主義に資するものや公共性を吟味した場合、許される人権の強度の行使はあると私は考えている。

 報道の自由への侵害があれば闘うべきだ。ここで今、民主主義を支える憲法上の人権侵害すると多くの団体が反対声明を出している特定秘密保護法案というものがある。国家という「公」が考える「秘密」を永久に秘密にする反人権法案だ。報道の自由や知る権利を本気で主張する者が、この法案にどのような態度で臨むかは自明である。(平井康嗣)

官邸で消費増税を発表した夜、安倍首相は単独インタビューを受けた

編集長後記

 官邸で消費増税を発表した夜、安倍首相は民放のニュース番組で単独インタビューを受けた。そこで首相は消費増税と法人税減税について、法人対個人という考え方はナンセンスであり、法人減税は効果的だという趣旨の発言をしていた。「企業」と言わずに「法人」と言う点がこざかしい。相変わらずのレーガノミクスやサッチャリズムと同じ供給者側(企業)頼み政策(サプライサイダー)である。

 銀行は政府から日本国債も買ってくれているという代表的な法人だ。しかし、みずほ銀行が暴力団組員との取引を隠していた行為が明らかになった。政府は暴排を徹底的にやっているのならば、このような銀行が国債を買う権利をとりあげたらどうか。銀行は潰せないと言うから銀行は腐り続けるのである。

『会社はだれのものか』の著者である経済理論学者の岩井克人氏は、資本主義は形式的なシステムだからこそこれを超えるものはないという。それゆえ対抗できるものも形式的であって、それは「倫理」だと指摘する。 (平井康嗣)

人を薬で眠らせる。 人体を切る。

編集長後記

 人を薬で眠らせる。
 人体を切る。
 人を拘束する。
 人を監禁する。
 人を殺す――。

 どれも近代刑法において人に対しては許されない犯罪行為である。しかし、それが日常的に(部分的に)許されている施設がある。病院、警察、監獄だ。

 もちろん、許されている理由はある(刑法上「正当業務行為」という)。でも、そもそも許されるものではないのだから、ほんとうは最小限度にしなければならないと発想するのが筋だ。しかし実際はどうだろう? この“超”人権的な行為を自分たちとは違うから構わない、とかんたんに許し、受け入れる気持ちがすでに日本社会に流れてはいないか。

 超法規的な病院や警察に安易に委ねることは、「憲法番外地」の拡大を認めることにつながっていく。今後、精神病棟に被介護者や認知症治療者の入院も増える方向だ。声なき声に耳を傾けていないと、つけはいずれ自分に跳ね返ってくるだろう。 (平井康嗣)