編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

日本国憲法が他国とくらべて特異な点は前近代的な象徴天皇制と理想的な平和主義の憲法9条の二つぐらいだろう

編集長後記

日本国憲法が他国とくらべて特異な点は前近代的な象徴天皇制と理想的な平和主義の憲法9条の二つぐらいだろう。これら以外は、たいていの国の憲法や条約と大差ない条文である。日本国憲法は世界的にそうとうなレベルで一般的で合理的なのである。そして天皇条項については、革新も含めて国会ではタブーになっているのだから、憲法改正の主眼は憲法9条しかない。加えて緊急事態(有事)規定だ。憲法がこの緊急事態規定を想定しなかったのも平和主義の現れとも考えられる。

戦争は国家と国家の争いだが、対テロ戦にシフトする中、厳密な意味での戦争はほとんど起きない。今の政治屋は「戦争」より拡大された状況を求めている。それが緊急事態だ。緊急事態は人権を制限でき、“秩序を守るために”主権は文字通り最高権力者に集中する。「独裁」である。だからアベは緊急事態を望む。「原発は過酷な事故が起きる」というほど原発を推進する。「隣国と紛争が起きる」というほど外交関係を硬直化させる。タチが悪い。 (平井康嗣)

ゴンゾー・ジャーナリズム

 表紙にあるハンター・トンプソンを描いたラルフ・ステッドマンはトンプソンと組んで仕事をすることが多かった。

 GONZOは「ならず者」という意味で、これにはジャーナリストと続くだろうが、略されている。ゴンゾー・ジャーナリズムは客観報道などの正統派ジャーナリズム――たとえば、ウォーターゲートを暴いた『ワシントン・ポスト』、とは一線を画す攻撃的な取材表現方法だ。

 トンプソンは1967年にアウトローのバイカー集団、ヘルズ・エンジェルスに密着取材した作品を発表した。彼らに同化し、本質をえぐり出そうとした。

 私が密かにゴンゾーだと思っている業界人が数人いる。記者と限らないが、嗅覚鋭く、いずれも情熱が先行し、その人が場に関わると取材先の物語が変化していく。

 表紙のVINTAGEは特定の年代の逸品をさす言葉だ。現代ではゴンゾー自体が希少だと、ステッドマンはぼやきたいのだろう。しかし今の時代こそ個人で闘い表現するゴンゾー・ジャーナリズム魂が求められているのだ。(平井康嗣)

今週号から3回にわたり辺見庸さんと佐高信編集委員の対話を掲載する。

編集長後記

 今週号から3回にわたり辺見庸さんと佐高信編集委員の対話を掲載する。辺見さんが今の言論空間に憤っているということは対談する前から伺っていた。私も今の論壇は気持ちが悪い。それは率直ではない「売論家」が目立つからだ。その歯切れの悪さは人情や倫理からくるためらいとは別の性質のものだ。戦後民主主義的な「振り付け」が自壊していると考え、これからどう演じることが得か様子を窺っているように見える。

 記事を何度か入れている慶應義塾大学の幼稚舎(付属小学校)は象徴的である。関係者からは、(その是非はともかく)福澤翁の精神よりもコネと見栄とカネの話ばかりだという嘆きを聞く。このような閉じた“エリート”空間への媚びは目に余る。

 私はソクラテスが好きだ。誰かれとなく質問をして最後は死刑になったギリシャの哲学者だ。その生き方は到底真似できないが、彼の「無知の知」という言葉は噛みしめる。王様は裸だと言った少年はこの哲人をモチーフにしているのかもしれない。 (平井康嗣)

4月というのは、なんとなく、がんばるか、という気持ちに毎年させてくれる。

編集長後記

 4月というのは、正月からたいしてろくなことがなくとも、関東の日本家屋特有の底冷えもふわっと和らぎ、なんとなく、がんばるか、という気持ちに毎年させてくれる。

 特集にある、「働く」ということはなにかだが、映画公開で再評価のハンナ・アーレントは『人間の条件』で労働、仕事、活動などと分類し、なるほどと思ったりもしたが、こういう抽象的な概念の整理は人それぞれでもいい。ともかく、生きるための糧を得ることが労働であり、多くの人は必死に生活している。

 私が茨城の建設関連工場で非正規以下の待遇(無社会保険、無給)で“労働”していた当時、従業員はヤンキー上がりの兼業農家が多数派だった。彼らは上司(現場監督とか)を殴って簡単に辞め、東京=ネクタイへの鬱屈も腹の底に抱えていたが、それなりの金と保険があれば仕事内容に執着しなかった。だが建設関連労働者は95年の700万人から450万人程度に減少、震災復興の遅れが指摘されている。必要とされる仕事のズレが気になる。 (平井康嗣)