編集長コラム「金曜日から」 編集長のコラムを公開しています。

歴史修正主義者の根っこ

編集長後記

『産経新聞』や週刊誌の『朝日新聞』叩きが激しい。「慰安婦」報道批判は当然のこと、吉田調書でも『朝日』と、民主党をここぞとばかりに批判してい
る。自衛隊員に首相の番記者もさせてしまう『産経』は、かねてから自民党や自衛隊の機関紙みたいだったが、その度合いは最近特に高く、狭い同人新聞の
ようだ。

 一方、『週刊文春』『週刊新潮』『週刊現代』『週刊ポスト』も「慰安婦」報道で『朝日』批判を展開している。もともと週刊誌は新聞・テレビの揚げ足
取りが好きだ。しかも今は『朝日』や韓国をバッシングすれば売れるので、嬉々として便乗する。しかし売れどきを過ぎれば、そこで潮が引くとも言える。
ただ『ポスト』の現編集長は、『産経』と論調が似た『SAPIO』の前編集長で取材よりもオピニオン重視だと聞くから、今後も続くのかもしれない。

 日本の歴史修正主義者の根っこは日本の侵略戦争を認めるか認めないか。このような「自慰史観」のありようにまで週刊誌は踏み込む覚悟はあるのだろう
か。(平井康嗣)

今週号の特集は「キラキラ系」業界

編集長後記

 8月15日に東京にいると、たいてい靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑に行く。靖国は年ごとに負の思いこみエネルギーが満ちてきて、特攻服を着て上京する全国の右翼団体の「様式」に、懐かしさすら憶えてしまった。一方、千鳥ヶ淵は国立の戦没者慰霊墓苑なのに知名度は低いようで、参拝者も物見遊山も多そうな靖国に比べると少ない。九段下駅で案内もしてないようだが、どうにかならないものか。

 さて今週号の特集は「キラキラ系」業界。これは村上力の命名だが、言い得て妙だ。

「平井さん、美容師とかアパレルとかキラキラ系の子たちは自分らが搾取されている意識がまったくないんですよ。夜はキャバクラでバイトしたりして生活維持して、儲かるのはトップだけ。そういう子たちに読んでもらいたいです」

 足下を見れば出版業界も「やりがいの搾取」と言われることもある。私もカネをもらわなくてもやりたい仕事はと考えてこの職場に潜り込んだ。いまも「労働」としてよりも「仕事」としてつきあえている気がする。 (平井康嗣)

安倍首相は憲法を読む気はないし、信じたいものを信じるだけらしい

編集長後記

 集団的自衛権の行使容認は、憲法9条の素直な解釈から逸脱するものだが、安倍首相は憲法を読む気はないし、信じたいものを信じるだけらしい。

 トップのその態度は、いまやこの国で蔓延している。首相はかねてから朝鮮人「慰安婦」の強制連行の証拠はないという立場だが、そのような議論は飛躍を重ね、今や戦時中の強制労働を含めた朝鮮人への「強制性」の歴史を否定する動きにまで広がっている。この主張者らは路上抗議をし、請願や、議会決議を求めるなど民主的手続きを重んじる。「左翼のプロ市民運動家」といういやなレッテル貼りがあるが、今や「右翼のプロ市民運動化」と呼びうる状況だ。彼らは警察に忠実なデモをし、容易に裁判所の介入も求める。

 しかし、このような下位の法は守る一方、上位規範である憲法や人権条約などには否定的だ。目の前の細かい手続きやルールを守り、立法趣旨や本質を考えることのない「悪法も法なり」という態度は悪化し続けていると思っていたが、今や危険水域に達している。 (平井康嗣)

言葉をあきらめてはいけない

編集長後記

 言葉の分相応とは、なんだろうか。もともと私たちは表現したいことを、自分の解釈で言葉に当てはめているだけだ。その成功も失敗もある。伝えたいことが完全に伝わらないのは当然だ。

 だから一方、芸術や行動で人の想いは伝えうる。むしろ言葉よりも伝わることがある。古代、ソクラテスは書き言葉を残さなかったそうだ。書物は誤読や解釈集団を生むからであり、一方的に言葉を押しつける演説や、そのコンサルをしていたソフィストたちを嫌ったともいう。

 だからといって言葉をあきらめてはいけない。弟子のプラトンはそれでもソクラテスの言葉を残した。私も言葉の力を信じる気持ちがなければ雑誌や本などつくれない。言葉には限界はあるが、やれることはいくらでもある。

 政治家は言葉を押しつける職業の最たるものだ。かつては、本気で言葉で闘おうとしていた政治家がもう少しいた気がする。しかし、権力を手にした安倍首相などは、ただの義務や手続きのように話し、軽々しく意味をすり替えているように見える。(平井康嗣)